スッタニパータ解説 スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇 909の解説 909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからで... スッタニパータ解説
スッタニパータ解説 スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇 908の解説 908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によっ... スッタニパータ解説
スッタニパータ解説 スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇 907の解説 907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。真の修行者は、分ける事がないので... スッタニパータ解説
スッタニパータ解説 スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇 906の解説 906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。かれらは自分の道を人間的思考の運動である(称賛⇔非難)によって称讃... スッタニパータ解説
スッタニパータ解説 スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇 905の解説 905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。もしも他人に非難されて... スッタニパータ解説