スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ パスーラ824のご法話

かれらは人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げて両極端の思考である「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が両極端に依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理と思い込んでいる考えに固執(こしゅう)している。

 

 

世の宗教者たちは清浄だとか不浄だとか言うであろう。しかしそれもまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)なのである。他のものを排除するものに真理を観る事はできない。なぜならば半分を排除し全体を観る事が出来ないものは真理が見えないからである。故に修行者は自らの想いに固執することなく中道を歩み世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823のご法話

聖者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を顧(かえり)みることなく、それ「=運動」を離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々「=両極端を追い求めて荒波に溺れかけている人」はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

聖者というものは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、彼の岸へと渡り終わり安らぎに帰している故に両極端の束縛から解放されているのである。世の人々を見よ。なんと人間的思考の運動(快⇔不快)に束縛されて雁字搦めである。故に修行者はその束縛から解放されるためにも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を守る修行に努めよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822のご法話

両極端を追い求める俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ー中道を維持することによってかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

人と言うものは人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求め年をとりまた追い求めては生まれてくる。故に聖者はその輪廻から解脱するために自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努めよ。それが解脱するための唯一の道だからである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821のご法話

聖者はこの世で前後に「人間的思考の運動(快⇔不快)には」この災いのあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を守る独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。両極端を求めて淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

人はこの両極端の運動である人間的思考の運動(快⇔不快)に陥ると快を掴み不快を排除しようとするが故に全体を観る事が出来ない。全体を観る事が出来ないもの=真理を観る事は出来ないのである。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して遂には真理を観たのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも中道を踏み外し、人間的思考の運動(快⇔不快)を抑えられずに、淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

なぜ人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めると愚者のように悩むのか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求めて快を得たとしてもそれは運動をするので不快がついてまわるからである。それは、快⇔不快と言う振り子の運動をするように交互に現れる。賢者はそれを知って運動には近づかない。故に安穏を観たのである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819のご法話

そうして他人に詰(なじ)られた時にはそれをごまかそうと虚言に陥(おちい)る。すなわち[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。かれには他人からよく見られていたいと言う想いも潜んでいるのである。その想いは修行とは全く関係がない想いであり、これがかれの大きな難所である。

 

 

なじられた時になぜごまかそうとするのか?それは他人からよく思われたいと言う想いからである。それは人間的思考の運動(快⇔不快)の運動である。その想いによって更に修行と逆行するのである。なぜならば修行はその想いを制することだからである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、よく気をつけて世の中を遍歴せよ。

 

 

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818のご法話

かれは諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲の想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保ち安穏を観たのである。

 

 

 

両極端へのこだわりは人間の欲である。人間的思考の運動(快⇔不快)の運動には必ず快には不快が付いて回る。それは運動するので快は次第に不快へと変化する。その道理を知らなければ、困窮すること必然である。故に修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)への想いにとらわれることなく、それらの想いを制して遂には安穏を観たのである。

 

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817のご法話

修行者が、中道から道を踏み外し、「人間的思考の運動(快⇔不快)=両極端」を求めるのならば、かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

修行者は、中道すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)」を制した眼で観察を行うのが修行である。故にそれらを怠って人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を求めるのであれば、どこが聖者と呼べようか?それを知って修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816のご法話

かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、中道を踏み外し両極端へと車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて両極端を追い求める時、中道を保てないのであるから、真理を観る事はできない故にその状態は凡夫なのである。故に修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。

 

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ814のご法話

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しい=「運動に引き込む」ことがらである。

 

 

中道を目指す修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めてはならない。それらを制するのが修行なのである。この無常の世で掴むことのできないもの(両極端)を追い求める事。それすなわち苦である。そのことを知って聖者は、自らの人間的思考の運動を制して遂には安穏を観たのである。