スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790のご法話

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

世の人々は、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想を見たり聞いたりしてはそれらを、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分けては、それらを掴み、また捨てる。そうしては禍福の因を作っていく。真の修行者は、それらを掴むことによって、清らかになるとは説かない。修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)に常に気をつけ、それらの見方を捨て去って、両極端に汚されることなく中道を歩み遂には清らかになるのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789のご法話

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

世の人々は、教えや、知識をも人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別し、それらを頼り、あるいは掴んで苦しみを逃れよとする。修行者は知るべきである。それら掴んだもの、頼ったものには苦しみがついてまわることを知って、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止める事を常に気をつけ日々精進することによって遂には進むべき道が見えてくるのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

人は、どこか素晴らしい能力を持っている他人、あるいは師を見つけては、あの人は凄い、あるいは、あの人が言う事は正しいと、頼り近づく。それらの人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による見解によって最上の智慧がもたらせられると思い込んでいる。聖者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めた観察によってのみ智慧がもたらされることを知り、頼り近づくことなく、自らを追究し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787のご法話

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)にもとづいて何かを掴もうとする人々は、この世の中ではおおよそ半分の人々は、反対の意見、あるいは反対の見方をするのであるから誹りや噂は免れないのである。それらの思考の運動を制し、あるがままに全てを見る修行者は、何かを掴むこともなく捨てることもなくそれらの束縛から解放されているのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786のご法話

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して中道を歩む修行者は、分別による偏った見方は存在しない。故にあるがままに、物事を見て、真理を知り、分別によって何かを掴もうとしないが故に頼る対象もなく、また生まれたいと言う強い想いもない。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785のご法話

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

人の見解と言うものは、それぞれの反応の仕方すなわち人それぞれの人間的思考の運動(正⇔誤)によって立ち上がるのであるから、自らのこだわりが人間的思考の運動によるものであると見極めて自らのこだわりである執着を乗り越える事は容易ではない。世の人々は、それぞれの人間的思考の運動である分別によって排除し、あるいは掴むことを繰り返して生活しているのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句784のご法話

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

真の修行者は、比較対象しない。それは、人間的思考の運動(優⇔劣)だからである。自分が勝っていると思っては喜び、他人が劣っていれば喜ぶ。その喜びを得るためには手段を択ばない。それらは運動による一時的な喜びであるから運動によって優越感は劣等感へと変化する。故にゆらぐものなのである。他人より優れているから真理を視るのではない。他人より劣っているから真理を視れないのではない。それらの運動を制して、全体を見る事ができた時に、真理を視る事ができるのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783のご法話

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。

 

 

人間と言うものはどうしても少し修行が進むと嬉しくなって周りの修行者に自慢したくなるものである。その心の高ぶりは人間的思考の運動(快⇔不快)であるから、それに基づいた行動は、煩悩によるものである。すなわち何か心地よいものをである誉め言葉を求めているのである。真の修行者はどうであろうか?そのような言葉に喜びことなく、自らは道半ばであることを自覚して、それらの気持ちをも制して、遂には、彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782のご法話

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)によって、周りのひとから心地よい言葉が聞きたいと言う欲が修行者に発生した場合には自分の修行状況を人に言いふらかしたいと言う欲が生じる。それは人間的思考の運動がもたらす耳から入る感受すなわち心地よい言葉が聞きたいよ言う運動から立ち上がる心理である。かれは人間的思考の運動が動いているのであるから、修行ができていない人と言う事になる。それを知って修行者は、自らの行動に注意し、それらは言わずとも自然にわかるものであると知って、自らの思考を動かすことなく修行に励むものである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781のご法話

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が止められず、好みに捉われている人は、視野が狭く、全体を見る事ができない。故に自らの枠を超える事ができないのである。かれは、自らの枠の中では完全だと思っているが全体を見る事ができていないのである。