810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
世の中の人々が暮らす世界、あるいは世の人々が求める世界は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を求める世界である。そこは荒波であり、苦楽が交互に押し寄せる。聖者はそれを知って、両極端を制し、それらの荒波を回避し独り静かに現象を観察し、真理を悟って遂には彼の岸へと到達するのである。
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810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
世の中の人々が暮らす世界、あるいは世の人々が求める世界は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を求める世界である。そこは荒波であり、苦楽が交互に押し寄せる。聖者はそれを知って、両極端を制し、それらの荒波を回避し独り静かに現象を観察し、真理を悟って遂には彼の岸へと到達するのである。
809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
わがものとして執着したものを掴んだ者は、どのような苦しみがついてまわるのであろうか?それは、憂いと悲しみと慳(ものおし)みである。この世は無常であるが故に、執着の対象は、変化し、手元を離れる。故に憂いと悲しみと慳(ものおし)みを掴んだ者は、それらから逃れることは出来ないのである。それを知って聖者は、対象を離れ、それらを手放して安穏を見たのである。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
世に生まれ、名前を持ち、その時を生きる。人は、常に変化し、若き者も年老いて、やがて死を迎える。その生きざまは世に伝えられるかも知れないが、ただ、それだけである。それは、人が生まれて、死を迎える。その事実がある。生あるものには死がついてまわることを知って、その苦しみから離脱しようとするならば、生を掴んではならない。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
目の前に現れる現象、あるいは人、物、それらは全て無常である。この世は、生まれては、変化し、消滅する。まさに夢の如くである。全ては一時的なものであり、故に、貴重ではあるが、それらは掴むことが出来ない。変化するものを掴むことそれは、苦である。変化あるものを変化あるものであると知り。故にその輝きを悟り、無常を感じ、修行者よ世の中を遍歴せよ。
806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。
人がわがものと考えるものそれは、一時的なものである。この世は無常であるから、人が死ねば全てが失われる。人が何かを掴めば、人はその想いによって無常の苦の世界へ生まれてくるのであるから、何かを掴むことは苦である。修行者は、それを知って、何かを掴みたいと言う、迷わせる想いを捨て去って、何ものも掴むこともなく、全てを手放して、遂には彼の岸へと到達するのである。
805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
在家とは何か?それは、何かを手に入れるため、あるいは掴むために、動き回ることである。しかし、この世は無常であるから、手に入れたものは必ず失われる。その想いが強ければ強いほど苦しむのである。それを知って修行者は、その想いを手放し、何ものも掴むことなく、この世の理法である無常を観察して、遂には彼の岸へと到達するのである。
804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。
生まれたものは必ず死ぬ運命にある。それは、人間的思考の運動(生⇔死)の運動でもある。人間は、想いによって生まれ、迷いのうちに死ぬ。生には必ず死が伴う事を知って、修行者は、生を掴んではならない。生には死が伴うものである。たとえ生まれてきた時は若くても、必ず老いに襲われ、死ぬのである。それを知って、修行者は、生を掴むことなく、死を手放して遂には彼の岸へと到達するのである。
803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。
かれらは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)がもたらす妄想分別をなすことなく、分別していずれか一つの偏見を特に気に入り掴むということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。かれは、自ら目の当りに見る理法によって全てを知り、輝いている。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。
802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも制し、妄想(もうそう)を構(かま)えていない。いかなる偏見=人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?かれは、自らの思考を制し、解放されているのである。
801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。
修行者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による両極端の執着を制し、彼の様々な輪廻転生のパターンによる生まれ変わりや両極端による来世への願望を捨て去り、目の前の現象に対しても、両極端の断定である人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応の仕方は存在しない。かれこそは中道を歩む者である。