スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

修行者とは、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて世間においての比較をしない。世の人々は、比較するが故に心荒むものである。この心の動揺が発生すると心に葛藤が生まれ荒波が圧制する故に世の人々は、自らが作りなす荒波に溺れるのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、煩悩に溺れっることなく世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854のご法話

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

世の人々は利益を求めてうろつき、得られなければ怒り、その妄執によって他人とぶつかる。そして美味を求めては一時的な喜びに溺れる。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも掴むことなく手放し、得ないが故に怒ることもなく、ぶつかることもなく、美味を求めてうろつくこともない。すなわちこだわりを取り払った修行者、それが聖者である。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853のご法話

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

修行者は、死ぬよりも前に次の事が実行できないといけない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また、何かを得たとしても、高慢にならず、常に人間的思考の運動(快⇔不快)を制して柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、人間的思考の運動(快⇔不快)によって物事を分けて信じる事を離れて、分けないが故に嫌うこともない。このようにふるまう修行者は聖者と呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852のご法話

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

我々修行者が死ぬよりも前にやり遂げる事。それは人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、(遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、それらを得るために偽ることなく、両極端を貪り求めることなく、何かを得たとしても、ものおしみせず、何かを得ても傲慢にならず、他の誰かが何かを得ても陰口を叩かない。故に心は平安であり安穏なのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851のご法話

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)の赴くまま未来を願い求め、過去を思い出して憂(うれ)える。感官で触れる諸々の対象すなわち目に見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で臭うもの、舌で味わうもの、触れるものに対して人間的思考の運動(快⇔不快)で反応し、快を掴み不快を排除する。この行為が禍福を作り出し、快⇔不快の運動を発生させ、それが時間を作り出し、無常の世を作り出すのである。この世界からの解脱、それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもなく、感官で触れる諸々の対象について人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を歩むことである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850のご法話

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。このように心が動揺しないものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849のご法話

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、全てを手放し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においても人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、くよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。このように見る修行者は、荒波を渡り終わり、彼の岸へと到達するであろう。

スッタニパータ マーガンディヤ847のご法話

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による想いを離れた人には、それらを掴もうとする結ぶ縛(いまし)めが存在しない。分別せずあるがままに観る智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)による想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。

 

スッタニパータ マーガンディヤ846のご法話

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、それらを分別して掴むことがなく、慢心に至ることがない。かれの本性はそのような人間的思考の運動(快⇔不快)によるものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)による執着の巣窟に導きいれられることがない。故になにものにも頼り近づくことなく、自らの道を照らし歩むのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ845のご法話

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

修行完成者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を離れて世間を遍歴するのであるから、両極端に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)を一滴の水も通さぬほど制することを説く者であって、人間的思考の運動(快⇔不快)を貪(むさぼ)ることなく、運動がもたらす欲望にも世間にも汚されることがない。