スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903のご法話

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。人間的思考の運動(優⇔劣)によって比較対象し、自らが優れていると見なす。そこには、真理はない。人間的思考の運動が立ち上がっているからである。自ら真理を見る者は、他と比較する必要もなく安らぎに帰している。そのように師は言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902のご法話

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

 

ねがい求める者には人間的思考の運動(快⇔不快)による快⇔不快を掴もうとする欲念がある、また、はからいのあるときには、不快を恐れるおののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901のご法話

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(快⇔不快)によって何かを掴もうとする妄執を離れていないので、それらを得るためにうろつき、移りかわる種々なる生存のうちにある。それらを制することが修行なのだが。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900のご法話

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を静止せよ。一切の戒律や誓いによる人間的思考の運動(できる⇔できない)をも捨て、世間の人間的思考の運動(罪過(ざいか)あり⇔罪過なき)この宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(「清浄である」⇔「不浄である」)とか運動によって、ねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく全ての人間的思考の運動(快⇔不快)を制して初めて修行が出来るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899のご法話

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて人間的思考の運動(快⇔不快)により快を望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が不安になり隊商をもとめ見つけた時には安心する人間的思考の運動(安心⇔不安)であり、家から旅立った旅人が家がないと不安になり、家をもとめて見つければ安心するようなものである。これらも人間的思考の運動(安心⇔不安)である。修行者は、これら人間的思考の運動を制して世の中を遍歴して初めて安穏を観るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898のご法話

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人々は、人間的思考の運動による制戒を(守る⇔守らない)と言う運動によって、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。かれらは、制戒を守ると安心し、守らないと不安になると言う心の運動を生み出し、荒波に飲み込まれてゆくのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897のご法話

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、人間的思考の運動(快⇔不快)これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについての分別を制し「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?人間的思考の運動(快⇔不快)を制する者こそ修行者なのである。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896のご法話

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしても、それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は人間的思考の運動(快⇔不快)の運動である称讃と非難との二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。それらを制して怠ることなく観察することである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895のご法話

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自らの見方にこだわり、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じように人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた見方の人々から称讃を博するだけである。故に修行者は、自らのこだわりを捨て去って、他とぶつかることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894のご法話

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

一方的に決定した立場に立って人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、みずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。世の人々は、周りとの比較、あるいは優劣によって、より優れたところに実りを見いだそうとするが、それらによって修行が成就するわけではないのである。