スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 迅速925のご法話

925 こころを安定させよ。うろついてはならない。後で後悔するようなことをやめよ。怠(なま)けてはならぬ。そうして修行者は閑静(かんせい)な座所・臥所(がしょ)(寝る場所)に住まうべきである。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、こころを安定させよ。両極端にうろついてはならない。運動によって後で後悔するようなことをやめよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を制することを怠(なま)けてはならぬ。そうして修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)から離れた閑静(かんせい)な座所・臥所(がしょ)(寝る場所)に住まうべきである。このようにして真理を観察するのである。

 

スッタニパータ 迅速924のご法話

924 食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらが得られないからとて心配してはならない。

 

 

食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ても、貯蔵し、安心してはならない。またそれらが得られないからとて心配してはならない。それらにまつわる人間的思考の運動(安心⇔心配)を制して、心の動揺を制せよ、心が動揺している限り、真理を見ることは出来ないからである。

スッタニパータ 迅速923のご法話

923 苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲観してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(ふる)えてはならない。

 

 

苦痛を感じることがあっても、修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)の動きによく気をつけ、感情を立ち上げることなく悲観してはならない。やり直そうと生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、慄(ふる)えてはならない。常に心の動揺を制する者こそ、目の当たりにした真理を観察することが出来るのである。

 

スッタニパータ 迅速922のご法話

921 〔質問者いわく〕、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは、正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

 

 

 

922 〔師いわく〕、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。

 

 

〔師いわく〕、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。これら感受器官から入る情報を人間的思考の運動(快⇔不快)によって分けてはならない。世間における何ものをも、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、わがものであるとみなして固執してはならない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して世の中を遍歴せよ。

 

スッタニパータ 迅速920のご法話

920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。

 

 

 

海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別を静止して不動であれ。修行者は何ものについてもそれらを掴むことなく行い、欲念をもり上らせてはならない。

スッタニパータ 迅速919のご法話

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

 

 

修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心のうちが平安となれ。何かを掴もうと外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には、全てを手放し、取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

スッタニパータ 迅速918のご法話

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。

 

 

慢心すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げて『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。人間的思考の運動を制することこそ修行の第一歩だからである。

スッタニパータ 迅速917のご法話

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの内的な心の観察にても外的な現象の観察にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。慢心を立ち上げる事が安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。それらの想いも制しつつ世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 迅速916のご法話

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

 

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「人間的思考の運動(ある⇔ない)という運動を立ち上げるような〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して人間的思考の運動(ある⇔ない)を制して、目の前の現象をよく観察し、気づきにより学ぶことである。そこから智慧が生まれるのである。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇914のご法話

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、敵対することがない。かれは分別する負担をはなれて解放されている。かれは、何かを掴もうと、はからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。