スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ サーリープッタ964のご法話

955 サーリープッタさんが言った、ー
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。ーこのようにことば美(うる)わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうたことを。

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独(ひと)りで(法)楽をうけられた。

 

957 こだわりなく、偽(いつわり)りなく、このように範たる人として来たりたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

 

958 修行者は世を厭(いと)うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

 

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。ー修行者は音のしないところに座臥(ざが)していても、それらを恐れて震(ふる)えてはならないのだが。

 

960 未到(みとう)の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。ー修行者は辺鄙(へんぴ)なところに座臥(ざが)していても、それらの危難にうち克(か)たなければならないのだが。

 

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発するべきか?ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

 

962 心を安定させ気を落ちつけてている賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?ー譬(たと)えば加治工(かじこう)が垢(あか)を吹き去るように。」

 

 

963 師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、人なきところに趺坐し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

 

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、世間の執着の対象である人なきところに趺坐し、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して心と現象を観察し、さとり(真理)を欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、しっかりと気をつけ分別制することを守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。そのような時にも、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、動揺してはならない。そうすることによって、現象より真理を見いだすことが出来るのである。

 

 

 

 

スッタニパータ 武器を執ること954のご法話

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別から離脱した聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは運動を離脱して安らいに帰し、何かを掴むこともないので慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。それらの営みから解放されているのである。ーと師は説かれた。

スッタニパータ 武器を執ること953のご法話

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、運動によって動揺し煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれは運動がもたらす、あくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

スッタニパータ 武器を執ること952のご法話

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

修行者と人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない世の人々とどのように違うのであろうか?修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない修行者について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

スッタニパータ 武器を執ること951のご法話

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ分別するような思惟すなわち「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、わがものという観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。これら感情的な意識は人間的思考の運動(快⇔不快)に基づいて立ち上がるのである。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をよく制し、意識へと繋がる流れをよく観察し、それらを制して世の中を遍歴し、修行するのである。

スッタニパータ 武器を執ること950のご法話

950 名称と形態について、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、20ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

名称と形態について、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別をやめ、わがものという想いの全く存在しない人、また何ものかがないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。すなわち生と死からの解脱である。

 

 

スッタニパータ 武器を執ること949のご法話

949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

 

過去に分別した煩悩を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、汝に何ものも有らぬようにせよ。現在においても汝が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。このように常に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怠ることなく修行するのである。

スッタニパータ 武器を執ること948のご法話

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世間における諸々の両極端による欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、運動に流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。諸々の賢者はこのようにして安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 武器を執ること947のご法話

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。

 

 

かれは智者であり、修行の達人である。かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、現象をあるがままに見、理法を知りおわって、分けることがないので、何ものかを掴むこともなく、依りかかることもない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。かれこそは全てを知るものである。

スッタニパータ 武器を執ること946のご法話

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。

 

 

修行者である聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに見る真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。この人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で現象を見た時にかれはまぎれもない真理を悟ることが出来るのである。