世間の営みから遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。「無常である何かを追い求めると言う」迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
世の人々は常に何かを追い求め忙しい。無常であるこの世に存在する対象は、常で無いのであるから必ず失われてゆく。故にそれらを追い求めるかれらは、失われては追い求め、また失うのである。故に智慧ある修行者は、それらの行為から遠ざかりそれらの行為を捨て去って安穏を観たのである。
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世間の営みから遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。「無常である何かを追い求めると言う」迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
世の人々は常に何かを追い求め忙しい。無常であるこの世に存在する対象は、常で無いのであるから必ず失われてゆく。故にそれらを追い求めるかれらは、失われては追い求め、また失うのである。故に智慧ある修行者は、それらの行為から遠ざかりそれらの行為を捨て去って安穏を観たのである。
またさらに、世間には五つの人間的思考の運動(快⇔不快)に誘導する塵垢(ちりあか)がある。よく運動に気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲=人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。
よく6根清浄と言うがそれはこの事である。つまり見るもの、聞くもの、臭い、味わうもの、触れるものこれがスッタニパータで出てくる5つの塵垢だがこれに意識(心)を加えて6根と言う。つまり、この6つの感じ取れるものに対しての反応の仕方(快⇔不快)によく気をつける事で中道を保つのである。その中道を保った眼で世の中を観察する事で気づきが生まれ、その積み重ねが智慧すなわち真理なのである。
諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、掴まないが故に捨てることもない。かれはこの無常の世にありながら一切の偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」を掃い去っているのである。
諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、全く反対意見の人々がいるのであるから、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。故にそれらを掴もうとしなければ言いがかりを受けることもない。この無常の世は、生から死への運動への道なかばである故にその運動を止める人かれこそはその運動から離脱する聖者なのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、両極端に汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、運動によって「ゆらぐ=変化する」ものにたよる平安に執着しているのである。
人間的思考の運動を立ち上げたままの状態では、両極端を掴もうとする思考に陥る。人はそれを掴むと喜び、また掴もうと追い求めるのである。この無常の世では、それらは変化するのであるから揺らぐものなのである。故に修行者はそれらを離れ、思考の運動を止めて安穏を観るのである。
1146 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を止めて信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)がもたらす信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」信仰によってまたこの無常の世に生まれることが無いように。
1122 「四方と思惟(しい)と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識(し)られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1123 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行にはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
1120 ピンギヤさんがたずねた、「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。ーどうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」
1121 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。世の人々はこの無常の世において物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は病いなどに悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、観察によって悟りを得、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
1116 モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
(ブッダが答えた)、「つねに人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、中道による眼で無常を感じ取り、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、そこから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンには、この〈ありのままに知る智〉が存する。」
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端を手放し、無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、そこの運動から出て運動についてしずかに観ずる。安立したその修行者には、このありのままに知る智が存する。」
1112 ポーサーラさんがたずねた、「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。
1113 物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものも存在しない』と観ずる人の智を、わたくしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」
1114 師(ブッダ)は答えた、「ポーサーラよ。すべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来(にょらい))は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱(げだつ)していて、そこをよりどころとしていると知る。
師(ブッダ)は答えた、「ポーサーラよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、その中道を維持した観察によってすべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来(にょらい))は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱(げだつ)していて、そこをよりどころとしていると知る。