スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883のご法話

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端への想いに執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができないからである。

 

人が「これだ」と思い込んで掴んだ想いそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故にその想いに執着したならば、他人とぶつかるのである。それぞれがそれぞれの想いに執着をし、衝突する。それを見て賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、想いを掴むことなく、遂には真理を見たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882のご法話

882 諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの各自の見解=「両極端による見方」を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を立ち上げたままのことばそれは真理ではない。なぜなら半分を見ていないからである。そうしては逆の半分を見ている人間を愚者だと決めつける。故に双方非難の応酬となるのである。それを知って賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め自らの眼で真理を見、遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881のご法話

881 またもしも人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。しかしながら、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で観察しないならば、真理を観る事は到底できないのである。

 

自らの考えに執着している限り人間的思考の運動(快⇔不快)は動いているのである。故にその状態では半分を見、半分を見ないが故に全体をみる事はできない。全体を見なければ真理に到達することはできないのである。それを知って賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880のご法話

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、すべて各自の偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

真理というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままではみる事はできない。何故ならば、真理をみるには全体をみる必要があるからである。故に思考の運動を立ち上げて半分を見、半分を排除している人間には到底見えないのである。それを知って智慧ある修行者は、論争に赴かず自らの思考の運動を止めて真理をみたのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879のご法話

879 かれらはこのようにそれぞれの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を観る事はできないのである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げていると言う事は、いずれかの両極端を掴んでいるという事である。それらを掴んだままでは、全体を見る事が出来ないが故に真理を観る事が出来ない。その状態で真理に達した人であるという事はまさに本末転倒である。それをみて智慧ある修行者は、論争に赴くことなく自らの思考を止める事に集中せよ。誰かと組することなく、自らが真理を観ればいいからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878のご法話

878 世の中の学者たちは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)=「執着による見方」をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま論争する。真理は人間的思考の運動(快⇔不快)をせいするものにしか見えないにもかかわらずである。

 

 

論争に及ぶ者達には「こだわり」がある。「こだわり」=自らの見方に対して執着があるという事である。智慧ある修行者は、自らの運動を監視し、これらの思考はこだわりがあると気づいてそれらの思考を止める。その止めた眼で観察をすることによって真理を観る事が出来るのである。

 

 

 

 

スッタニパータ 争闘877のご法話

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

かの聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、中道による観察によって『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、中道による観察によって真理を知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

他の人々が言う境地などは修行する本人にとって意味をなさない。なぜならば境地とは、自らが見、自らが極めるものだからである。故に智慧ある修行者は、分別することなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、その目をもって真理を観たのである。

スッタニパータ 争闘874のご法話

873 (解脱についての問い)「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

対象に対して「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、対象への想いを制し中道を保つものーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

想いというものが修行の妨げになるものである。人は想いによって輪廻転生し、生まれてくる。あれこれ修行に対して考える必要は無いのである。修行者が実践すること、それは、想いを止め、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、中道を保つこと。それが「名称と形態との消滅」=「輪廻からの解脱」へとつながるのである。

スッタニパータ 争闘872のご法話

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

この無常の世の形成形態である「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は両極端を求める欲求を縁として起る。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

ここでは、修行者がお釈迦さまに中道での修行方法を詳しくお尋ねされている。人間的思考の運動(快⇔不快)が起こる元となっている接触についての質問である。また、そこから立ち上がった人間的思考の運動(快⇔不快)の両極端を掴もうとする所有欲が何故立ち上がるのか?また、「わがもの」と言う所有欲が存在しなくなる状況について、あるいはどうしたら接触をなくせるのか?その問いに対してお釈迦さまは、「この世に形あるものとして生起(生まれ)てくると接触が発生する。その接触によって両極端を求める所有欲が発生する。故に人間的思考の運動(快⇔不快)を止めてその欲求を制すればわがものと言う我執が無くなり、その状態で「形態が消滅=死」を迎えれば輪廻から解脱しこの世に転生してくることは無くなるのである。」とお答えになられた。

スッタニパータ 争闘870のご法話

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。それらを求めて立ち上がる生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。」

 

感官とは何か?それは目、耳、鼻、舌、身体、心である。それらが接触することで快と不快が生じる。故に快を求め不快を排除しようとするとその想いにより生起が発生する。この世は無常であるから生起したものは消滅するのである。