真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因=「輪廻の因」をつくることがない。
この世に存在するもの学問・戒律・道徳・思想どれをとっても人間的思考の運動に基づいて成り立っている。清らかと言うのは、自らの人間的思考の運動を止める事によって、両極端の穢れから離れる事によって清らかとなる。つまり、両極端を掴もうとする行為が穢れであり、それを離れた清らかな眼、つまり中道による眼で世の中を観察した時に初めて真理を観る事が出来るのである。その真理を自らの眼で見た時、その修行者の輪廻の因は無くなる=解脱するのである。
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