かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、両極端への欲望を貪り、熱中し、運動の波に溺(おぼ)れて、それらを掴んでは吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、死時には全てを手放す苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。かれらは手放したものをまた掴みたいと言う想いによってまた生まれてくるのである。
この世は無常であり移り変わる世界であるから、何かを掴んだとしても必ず手放さないといけない。それは、自らの身体もそうであり目の前に現れる人、物もそうなのだ。それをわからずに、手放せない人々は、輪廻の激流に飲み込まれて行きまたこの無常の世に生まれてくる。そこにあるのは、どのような人生を歩んだとしても、生で始まり死で終わる。ただそれだけのことなのである。この無常の世にあるのは、生起と消滅なのである。それをみて、それらを手放すことによって世の智者は安穏を観たのである。
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