スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

07月

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

世間では、人は諸々の見解=「人間的思考の運動(快⇔不快)による見方」のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)の範疇にあり諸々の論争を超えることがない。

 

世の人々は、分別の眼で物事を判断し見ようとする。しかしながら分別の眼では真理を観る事はできない。なぜならば分別によって半分しか見ていないからである。それを知って修行者は、自らの分別=人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ中道の眼をもって遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795のご法話

真の修行者は、煩悩=人間的思考の運動(快⇔不快)の範囲をのり超えている。かれが運動の対象である何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは思考の運動による欲を貪ることなく、また離欲=「思考の運動を離れる事を達成したいと言う欲」を貪ることもない。かれは比較対象を離れこの世ではこれが最上のものであると固執することもない。故に安らぎに帰しているのである。

 

 

この思考の運動を止める修行に熟達すると、常に気づきが生まれ反応は自然と止まる。まずは、自分だと思っている心の動きをよく観察をして止めるのである。自然とそれができるようになれば、真の修行者と言える。それが安らぎの状態である。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794のご法話

またさらに、世間には五つの人間的思考の運動(快⇔不快)に誘導する塵垢(ちりあか)がある。よく運動に気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲=人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。

 

 

よく6根清浄と言うがそれはこの事である。つまり見るもの、聞くもの、臭い、味わうもの、触れるものこれがスッタニパータで出てくる5つの塵垢だがこれに意識(心)を加えて6根と言う。つまり、この6つの感じ取れるものに対しての反応の仕方(快⇔不快)によく気をつける事で中道を保つのである。その中道を保った眼で世の中を観察する事で気づきが生まれ、その積み重ねが智慧すなわち真理なのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793のご法話

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、支配している。このように観じ、思考の運動に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

修行者は、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、動きが出そうな時は制御する。そうして自らをコントロールするのである。我々が自分だと思っているものそれは非常にコントロール難解なのである故に常に気をつけ制御することそれが修行なのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792のご法話

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想い=人間的思考の運動(守る⇔守らない)に耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による智慧によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

人間と言うのは、誓戒(せいかい)をたもてば「安心」し保てなければ「不安」となるこれは人間的思考の運動(安心⇔不安)である。この運動を止められない限り真理を観る事はできない。故に智慧ある人は自らの人間的思考の運動(安心⇔不安)をも止めて真理を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791のご法話

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)による煩悩の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動によって執着の対象をとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

お釈迦さまによる中道の教えは、人間的思考の運動を止めて、現象を観察し、真理を観て解脱することにある。故に師などを次々に変えたところで同じなのである。要は自らが、自らの思考の運動を止めて修行に励むことなのである。故にあの師が正しい、この師は間違えているというような想いをも捨てて、聖者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790のご法話

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因=「輪廻の因」をつくることがない。

 

この世に存在するもの学問・戒律・道徳・思想どれをとっても人間的思考の運動に基づいて成り立っている。清らかと言うのは、自らの人間的思考の運動を止める事によって、両極端の穢れから離れる事によって清らかとなる。つまり、両極端を掴もうとする行為が穢れであり、それを離れた清らかな眼、つまり中道による眼で世の中を観察した時に初めて真理を観る事が出来るのである。その真理を自らの眼で見た時、その修行者の輪廻の因は無くなる=解脱するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789のご法話

もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」がある人」と呼ぶ。

 

 

人間的思考の運動を止めた眼で現象を観察しないと真理を観ることはできないのであるから、見解によって真理を観ることはできないのである。故に人間的思考の運動を立ち上げたまま分別をしようとする人は、修行の道を踏み外しているのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤って理解する。

 

 

人は常に人間的思考の運動(正⇔誤)をしているので、運動による見方で正しいと思った方法を清らかになると誤って理解する。聖者は人間的思考の運動を止めた眼で真理を観、思考の運動を止める事で清らかになると悟る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787のご法話

諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、掴まないが故に捨てることもない。かれはこの無常の世にありながら一切の偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」を掃い去っているのである。

 

諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、全く反対意見の人々がいるのであるから、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。故にそれらを掴もうとしなければ言いがかりを受けることもない。この無常の世は、生から死への運動への道なかばである故にその運動を止める人かれこそはその運動から離脱する聖者なのである。