世間では、人は諸々の見解=「人間的思考の運動(快⇔不快)による見方」のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)の範疇にあり諸々の論争を超えることがない。
世の人々は、分別の眼で物事を判断し見ようとする。しかしながら分別の眼では真理を観る事はできない。なぜならば分別によって半分しか見ていないからである。それを知って修行者は、自らの分別=人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ中道の眼をもって遂には真理を観たのである。