スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2023年

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

その修行者はどうして自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を止めずに『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人=人間的思考の運動(優⇔劣)を止めた人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人=人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げている人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人=人間的思考の運動(優⇔劣)を止めている人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。故に安らいでいるのである。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分が思い込んでいる教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安=人間的思考の運動(快⇔不快)を止めることについて微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

 

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらに対する人間的思考の運動(正⇔誤)を捨て去って、それらに固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存=またやり直したいと言う想いを願ってはならぬ。その想いによって人は輪廻するからである。

スッタニパータ  マーガンディヤ836の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤(かご)を見て、両極端に固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

(師(ブッダ)は語った)、「われは昔さとりを開こうとした時に、三人の魔女を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。彼女らの内に秘める愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)を見あるいは糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。と観想し、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。と観想をしてそれらへの淫欲の想いを捨て去ったのである。

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない

 

 

さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と思いめぐらし、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げては、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、人間的思考の運動(勝⇔負)を制し、それらを掴もうとしないブッダに対してそれを実現することは、とてもできない。

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

またかれらは対立=人間的思考の運動(勝⇔負)を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々=中道を歩む人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で両極端を求めて「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

(特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ、中道を踏み外すような者は、ここにいない」と。

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人のいるところに到(いた)れ。人間的思考の運動(勝⇔負)を止めて中道を歩む者は、相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。