スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2023年

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。両極端による妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。これらの思考の運動を制し、あるがままに観察することである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また何かを掴んだ時に高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす遁欲(とんよく)などから遠ざかり、何かを掴もうと偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、掴んだとしても、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。これらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行に努めれば、立ち上がることはないのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす何かを掴もうと未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について思考の運動を止めて遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見=こだわりに誘われることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、両極端を掴もうとするあとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。このように中道を保つ者である。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においても思考の運動によって、くよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

こだわりと言う想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。中道を保って観察による智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した=こだわった人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなもの=こだわるものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟=「これだ!」というこだわりに導きいれられることがない。

 

 

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

竜(修行完成者)は諸々の(偏見)=こだわりを離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し中道を保ち平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

家を捨てて、住所にこだわることなく行脚し、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望=こだわりを離れ、何かを掴もうと未来に望みをかけることなく、自らのこだわりによって人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。このように自らのこだわりを捨てあるがままに観察するものである。