スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2023年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。これらは人間的思考の運動(最高⇔下劣)が渦巻いているのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすねがい求める者には両極端を掴もうとする欲念がある、また、人間的思考の運動(はからい⇔おののき)は、はからいのあるときには、おののきがある。この世において人間的思考の運動(生⇔死)である死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存=運動のうちにある。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

一切の戒律や誓いがもたらす人間的思考の運動(守る⇔守らない)をも捨て、人間的思考の運動(ある⇔なき)である(世間の)罪過(ざいか)「あり」或いは罪過「なき」この(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。かれの想いは人間的思考の運動(安心⇔不安)なのである。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからないならば不安となり、見つかれば安心する。家から旅立った旅人が家をもとめ、見つかれば安心し、見つからなければ不安となる心の運動のようなものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、人間的思考の運動(正⇔誤)によって制戒を掴むが故にそれらを求めて、また流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれているのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解=人間的思考の運動(快⇔不快)に分けようとする行為に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、あるがままに見るが故に「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわり=思考の運動=分けようとする運動に赴(おもむく)くのであろうか?

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたままでは、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地=人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を止めた境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたままの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の人々=同じ見方の人々から称讃を博するだけである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てた=「人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制した」ならば、人は世の中で確執を起こすことがない。