913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
過去に分別した汚れを捨てて、新しい汚れ=分別をつくることなく、両極端がもたらす欲におもむかず、両極端に執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見=分別を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
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913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
過去に分別した汚れを捨てて、新しい汚れ=分別をつくることなく、両極端がもたらす欲におもむかず、両極端に執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見=分別を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
聖者はこの世で諸々の人間的思考の運動(正⇔誤)である両極端を求めるような束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは運動による不安な人々のうちにあっても中道を守り安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれ=両極端に執着しているのだが。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
修行者は正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解=運動の癖を知って、心にとどめない。ー他の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、両極端に執着しているのだが。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
(「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。両極端がもたらす自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。故にかれらはその事柄のみを見るものであって全体を見ようとしないが故に真理を見る事ができないのである。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
見る人は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住=「運動の範疇ではない」または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを見ることによって清浄になるとは説かないからである。それらは運動の範疇にあるのであって運動によって変化していくからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、真理を見ると言う正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。人間的思考の運動(正⇔誤)を制するかれらは他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。かれらは自らの人間的思考の運動を制した目であるがままに真理を見るからである。
906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
かれらは自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げては自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人=人間的思考の運動(正⇔誤)が止められない人間はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
かれらは人間的思考の運動(完全⇔下劣)を立ち上げたまま自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった両極端がもたらす執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。