スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する他に上がる人間的思考の運動(快⇔不快)による貪欲を抑制せよ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、四智思考による観察によって、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、立ち上がる人間的思考の運動(快⇔不快)による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた理法による観察によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、分別がもたらす煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めると言う正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす運動である禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において運動による禍福の因をつくることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

もしも人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは思考の運動を止められない煩悩にとらわれている人が思考の運動を止めると言う正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」=「修行が進まない人」と呼ぶ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)によって分けた見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が「もたらす見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤って理解する。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは両極端に対して執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一切の偏見を掃い去っているのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、思考の運動を止めているので、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、それらを掴もうとするいつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

諸々の事物に関する固執は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうち=人間的思考の運動による運動の範疇にあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)ると言うような運動をしているのである。