スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2021年

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。人間的思考の運動(快⇔不快)による分別を立ち上げた状態で『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。あるいは人間的思考の運動(快⇔不快)による分別を立ち上げた状態で『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらの思考の運動を捨て去って、両極端に固執することなく、こだわることなく、中道を歩み、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。中道に基づいた観察これが内心の平安である」

スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見(思考の運動による)における過誤(かご)を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

スッタニパータ  マーガンディヤ836の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに観て、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤(かご)を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎ(真理)をわたくしは見た。」

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

 

(師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)という3つの煩悩が自らに立ち上がるのを見て、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろうと観想して、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと自らを抑制したのである。

 

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない人々は真理を観る事はできないからである。

 

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

 

また真の修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で掴むような「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。かれらはそれらを手放して真理を観たのだから。

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、偏見を固執して論争し、何かを掴み「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。真理をみるものは全てを手放して固執することはないからである。

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げて、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきもの(運動)は、あらかじめ存在しないのである。それらを止めて初めて真理をみるのであるから。

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは人間的思考の運動(快⇔不快)が求めるものを得ては慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「人間的思考の運動(快⇔不快)が動いた状態では清浄が達成される」とは説かないからである。それらを止めてこそ、あるがままの真理を観る事ができるからである。

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に運動によって期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。このように運動によって心は動揺し、あるがままの真理をみる事はできないのである。