スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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12月

スッタニパータ サーリープッタ970の解説

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』ー家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

 

 

すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)の運動による『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』ー家を捨て道を学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮=人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。中道を保つのである。

スッタニパータ サーリープッタ969の解説

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に臥す不快に堪(た)えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

 

 

観察によって気づくところの智慧をまず第一に重んじて、人間的思考の運動(快⇔不快)を制する善を喜び、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす危難にうち勝て。中道を歩むことによって、奥まった土地に臥す不快に堪(た)えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。いわゆる無抵抗の境地に至るのである。

 

スッタニパータ サーリープッタ968の解説

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克(か)つべきである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克(か)つべきである。人は、快が得られれば高慢となり、得られなければ、怒りが現れる。あるいは、不快を取りぞ退けば高慢となり、不快を得れば、怒りが立ち上がる。それらの運動を制して中道を歩むのである。

スッタニパータ サーリープッタ967の解説

967 盗みを行ってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈(いつく)しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときにには、「悪魔の仲間」であると想って、これを除き去れ。

 

 

両極端を掴もうと盗みを行ってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。あるがままに見て弱いものでも強いものでもあらゆる生きものに慈(いつく)しみを以て接せよ。人間的思考の運動(快⇔不快)によって心の乱れを感ずるときにには、「悪魔の仲間」であると想って、これを除き去れ。常に自らの心を観察するのである。

 

スッタニパータ サーリープッタ966の解説

966 病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)をも堪(た)え忍ぶべきである。かの〈家なき人〉は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固(けんご)に努力をなすべきである。

 

 

病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)をも無常を観察しつつ、堪(た)え忍ぶべきである。かの〈家なき人〉は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固(けんご)に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察する努力をなすべきである。

 

 

 

スッタニパータ サーリープッタ965の解説

965 異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)をも恐れてはならない。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。ーまた善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

 

 

 

異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)をも恐れてはならない。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、ーまた中道を追求して、両極端がもたらす他の諸々の危難にうち勝て。

スッタニパータ サーリープッタ964の解説

955 サーリープッタさんが言った、ー
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。ーこのようにことば美(うる)わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうたことを。

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独(ひと)りで(法)楽をうけられた。

 

957 こだわりなく、偽(いつわり)りなく、このように範たる人として来たりたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

 

958 修行者は世を厭(いと)うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

 

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。ー修行者は音のしないところに座臥(ざが)していても、それらを恐れて震(ふる)えてはならないのだが。

 

960 未到(みとう)の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。ー修行者は辺鄙(へんぴ)なところに座臥(ざが)していても、それらの危難にうち克(か)たなければならないのだが。

 

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発するべきか?ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

 

962 心を安定させ気を落ちつけてている賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?ー譬(たと)えば加治工(かじこう)が垢(あか)を吹き去るように。」

 

 

963 師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、人なきところに趺坐し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

 

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。

 

 

しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、不動なる中道を保ち、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。それらに動揺することなくあるがままに観察せよ。

 

 

 

 

 

 

スッタニパータ 武器を執ること954の解説

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、運動がもたらす比較対象から離れた聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは中道を歩み、安らいに帰し、両極端を掴もうとするような慳(ものおし)みを離れ、それらを取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

スッタニパータ 武器を執ること953の解説

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、動揺して煩悩に悩まされることなく、中道を保ち、真理を見た叡智(えいち)ある人にとっては、人間的思考の運動(快⇔不快)に反応するようないかなる作為も存在しない。かれは、両極端を掴もうとするあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。これが中道による安らぎである。

 

スッタニパータ 武器を執ること952の解説

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制した人間は、どのような波に襲われようとも、苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。