910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ自らの見方を掴み「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重(快に想う)しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。分別によって全体を見る事ができない修行者には真理を見ることは出来ないのである。