スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ 争闘865のご法話

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

 

世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)の運動による欲望にもとづいて起る。

人が来世に関していだく希望とその成就とは、人間的思考の運動(快⇔不快)にもとづいてそれらを掴みたいと言う欲望に基づいて起る。すなわちそれらを追い求めるかぎり欲望が成就しよとも生と死から逃れる事は出来ないのである。

 

 

 

 

スッタニパータ 争闘862のご法話

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

人は、何故に争闘するのであろうか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす憂い。すなわち思うようにならない事。思うようにならない悲しみ。あるいは、得た上で手放したくない物惜しみ。手に入れたことによって生じる傲慢。妬みによる悪口は全て人間的思考の運動(快⇔不快)による論争によってもたらされる。故に修行者は、日々自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけて遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に861のご法話

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

聖者は世間において、わがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは、人間的思考の運動(ある⇔ない)を制し、あるがままに観る。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)により欲望に促(うなが)されて、諸々の事物を掴もうと赴(おもむく)くこともない。かれは実にそれら人間的思考の運動(快⇔不快)を離脱したところに存在し、平安なる者と呼ばれる。」

スッタニパータ 死ぬよりも前に860のご法話

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を掴むことなく貪りを離れ、掴まないが故に慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を離脱して自らの思考を制し、妄想(もうそう)分別におもむかない。これら比較することは、修行とは全く関係のないことだからである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に859のご法話

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴し、あるがままに理法を知るかれは、世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難にも動揺することはない。かれは全てを知るものであり、無抵抗の境地を究めるものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858のご法話

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

聖者は、あるがままに世の中を遍歴し、全てのこだわりを手放し、子も、家畜も、田畑も、地所に縛られることはない。それらにこだわらず、掴むことなく、すでに完成された理法をあるがままに知る智慧が、かれには存在する。全ては人間的思考の運動(快⇔不快)を制したところからの気づきと智慧なのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857のご法話

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

世の人々は、自らの想い(生き方、生存の仕方)に振り回され、自らが作り出した荒波に溺れている。常にその事を考えて落ち着かないかれらに安穏はないのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、自らの欲望に対して考え悩むことなく、解放されている。あるがままに世を遍歴し、無抵抗の境地によって結ぶ戒めから解き放され荒波を回避し、彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856のご法話

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、あるがままに世の中を見聞し、理法を知る。完全なままに展開される理法を視てこだわらない。そのままで、完成されているからである。故にかれは、生存のための妄執も、この苦の生存を終わらせたいと言う妄執も存在しない。全ては、気づきと、知ることである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

修行者とは、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて世間においての比較をしない。世の人々は、比較するが故に心荒むものである。この心の動揺が発生すると心に葛藤が生まれ荒波が圧制する故に世の人々は、自らが作りなす荒波に溺れるのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、煩悩に溺れっることなく世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854のご法話

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

世の人々は利益を求めてうろつき、得られなければ怒り、その妄執によって他人とぶつかる。そして美味を求めては一時的な喜びに溺れる。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも掴むことなく手放し、得ないが故に怒ることもなく、ぶつかることもなく、美味を求めてうろつくこともない。すなわちこだわりを取り払った修行者、それが聖者である。