スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881のご法話

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

またもしも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をとめられないまま自分の見解によって清らかとなり、偏った自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。修行者は知らねばならない真の知性とは、分けることなく全体を見る事によってはじめてその気づきが生まれるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880のご法話

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(快⇔不快)による偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。かれらは各々が半分を見ようとせず全体を見る事ができないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879のご法話

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

 

かれらはこのように異なった人間的思考の運動(快⇔不快)の運動による執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自らの見方に執着をし、自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)の運動が止まらない限り、真理を視ることは出来ない。運動が動いている限りおおよそ半分を見ようとしないからである。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878のご法話

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

世の中の学者たちは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目によって真理を見いだし、論争から離脱している。

スッタニパータ 争闘876、877のご法話

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

 

「この世において或る自称賢者たちは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴んだ『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると人間的思考の運動(快⇔不快)による妄想で巧(たく)みに語っている。かの聖者は、『これらの偏見は人間的思考の運動(快⇔不快)によるこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを人間的思考の運動(快⇔不快)を止め熟考し、真理を知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす変化的生存を受けることがない。

 

 

 

スッタニパータ 争闘874のご法話

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

思考の対象である現象に対してありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。人間的思考の運動(快⇔不快)によって立ち上がる想いによって、この無常の世が形成されるのであるから、それらを制する事である。けだしひろがりの意識=世界(この世)は、想いにもとづいて起るからである。

スッタニパータ 争闘872のご法話

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

目の前に現れる感受の対象である名称と形態とを認識して感官による接触が起る。諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による所有欲は運動による欲求を縁として起る。欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。執着の対象である形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。

スッタニパータ 争闘870のご法話

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

快と不快とは、感官による接触すなわち目、耳、鼻、舌、肌、意識による感受にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。この世における生起と消滅ということの意義と、人間的思考の運動の起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868のご法話

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

 

怒りと虚言と疑惑、これらのことがらも、人間的思考の運動が立ち上がり、快と不快との二つの運動があるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ、修行者の達人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて現象を観察することによって、真理を知って、諸々のことがらを説いたのである。

スッタニパータ 争闘867のご法話

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中の欲望は、人間的思考の運動によって快⇔不快に分ける事によって、快を掴もうとし、不快を排除しようとする分別によって、起こるのである。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、消滅と生起を見て、ある⇔ない言う断定を下す。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制した観察によって理法を視て、真理を知るのである。