人間は、好きなものを手に入れると単純に喜ぶが、それは同時に苦しみをも手にしているのである。すなわち人間的思考の運動である喜び⇔悲しみの運動である。この世は無常であるから、欲望の対象を手に入れたと同時にそれらを失うと言う苦しみへと変化を始めるのである。世の人々は、この運動を繰り返し、自らが作り出した激流(喜び⇔悲しみの運動)に溺れかかっている。それを知って聖者は、全ての喜びを捨て去って、悲しみを回避し、遂には安穏を観たのである。
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人間は、好きなものを手に入れると単純に喜ぶが、それは同時に苦しみをも手にしているのである。すなわち人間的思考の運動である喜び⇔悲しみの運動である。この世は無常であるから、欲望の対象を手に入れたと同時にそれらを失うと言う苦しみへと変化を始めるのである。世の人々は、この運動を繰り返し、自らが作り出した激流(喜び⇔悲しみの運動)に溺れかかっている。それを知って聖者は、全ての喜びを捨て去って、悲しみを回避し、遂には安穏を観たのである。
修行の心構えについてご教授ください。
修行者の心構えは、常に周りに対して、あるいは環境に対して、自分に関わりのある人々へ良い影響を与える事です。お釈迦様もおっしゃっていますが、聖者は敵対するものを作らない。これは、聖者は、どのような環境、どのような状況に陥っても、敵対しないと言う事です。常に良い影響のエネルギーを与える。それはそのまま自分に返ってきます。ですから、例えコロナウィルスであっても慈しみで返します。これは、見返りを求めて行うのではなく、真理を追究する心から自然に現れる慈悲そのものです。その光を全宇宙へ周りの人々へ与えてゆく、修行者同士はそれを与え合うそれがニルヴァーナであり修行の心構えと言えます。
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伝え聞いた事を知ることと自らの修行によって知ることの違いをお教えください。
自ら知ること、それは、まさに信である。伝え聞いた事には常に、疑惑が付きまとう。それは、自らが見ていないからであり、確信が持てない。そこには人間的思考の運動である信⇔疑の運動が発生する。自らが知ることは、まさに疑いの余地がない信でありそれが本来の智慧であるともいえるのである。
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修行の方法についての質問です。
人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、中道を保った状態で、自分の心と身体、目の前の現象を観察すると言う事ですが、具体的には、どのように観察を進めていくのでしょうか?
修行の基本は、最初は粗くてもいいので、まずは、自分の反応の仕方によく気をつける事から始めます。これは、自分で気づいた段階で運動は止まりますので、日々反応に注視する事が大切です。次に中道を保てるようになった目で、観察を行います。そうすると、今までは、分けた目で見てきたものが、分けない目で見る事によって、気づきが生まれます。これが智慧です。次により集中力をもって、観察を行います。より詳細に観察することで、今度は、心も身体も現象もエネルギーとして観察するのです。そこには分別は存在しませんので、空間にエネルギーが立ち上がっては、消滅するありさまが観察できます。段階的には、表面上、電子的、そして光として感じ取ることが出来ます。これらを観察すると光があるいは電子が点滅しそれらに感情が反応しているさまを見る事ができます。ここまでくると、まさに見方の違いによってここまで見えるものが違うと言う事に気づくようになるのです。
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お釈迦様は、輪廻転生について、あるものは、死んだのちに、ここに生まれ、あるものは、ここに生まれると弟子に説いたと聞きますが、人間の輪廻転生についてご教授ください。
輪廻転生については、ブータンなどでも前世の記憶をもって生まれてくる人などもおられることから、人は輪廻転生すると言う事は、定着しつつあると思います。人は、生まれた時からお金持ちの人もいれば、貧乏な人もいます。また、身体が丈夫な人もいれば、身体が弱い人もいます。何故でしょうか?それは、前世があるからです。前世の結果によって今生の人生があります。もちろん修行を完成したならば生まれ変わってくることはないので、お釈迦様は、道半ばの修行者は、ここに生まれ、あるいはあそこに生まれると指導されました。前世と言っても、必ずしも、一つ前の前世の影響だけを受けるのではなく、自分が行った行為に対して条件が整った現象が目の前に現れます。ですからある人は、5前世前の行いの結果が現れたりします。生まれ変わりのパターンがあり、人によって周期的に同じような現象が現れたりもします。また、必ずしも未来にだけ転生するとも限らず、同じ時代を何度も転生するようなパターンもあります。そして、男性は男性、女性は女性にしか生まれ変わりません。日本人は、200年おきに生まれ変わるようです。皆さん方は、今生でこのスッタニパータのホームページに出会ったわけですから、輪廻転生を終わらせる大きなチャンスの生と言えます。この機会を是非活かされて、修行に精進なさって下さい。
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いつも拝見させていただいております。近年日本、世界では、川の氾濫や津波地震などが頻繁に起こっています。またこれからも南海トラフや関東の地震などが懸念されていますがどのような心構えが必要でしょうか?
お釈迦様の時代にもインドでは、川の氾濫、特に一面水浸しになるような洪水が度々起こっていました。そのたびに人々は、かろうじて水に浸からなかった洲へ避難したものです。スッタニパータに登場するカッパの質問にも、極めて恐ろしい激流に襲われたときの避難所をお説きくださいと言う質問があります。日本もこれから南海トラフに襲われるわけですから日本中が水浸しになりますし、関東の大地震に襲われるときには数多くの人々が苦境に立たされます。その時に何が人々を苦しめるのかと言うと、人々が掴んでいるもの環境、執着の対象が失われることによって苦しむのです。
お釈迦様は、極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)は、いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、ーこれが洲(避難所)にほかならない。
手放す事。つまり掴んでいるものがない人は、何が起こっても、苦しむことはないぞとお釈迦様はおっしゃられています。ひいては、この手放す事によって、若さを求めて生まれてくることもなく、この死と老衰がある世界。人間的思考の運動(生⇔死)の世界から脱出することが出来るぞとおっしゃられているのです。私たちが恐れているもの、それは、地震や津波ではありません。自らが掴んでいるものが失われる事に対しての恐怖です。その極めて恐ろしい自らが起こす激流に心が襲われないためにも、日々、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、何ものも掴まない事によって、自らの避難所を作ることができるのです。
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よく勉強させていただいております。空と尊さについて教えてください。
空と言うのは、無常と言う事ですね。この世の中は常に変化していきますので、空と言う事になります。つまりこの世の中に存在するものは全て空性がある。変化する性質を持っていると言う事になるわけです。人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人々は、この空性も持っている現象、物や、人、自分の環境、自分に執着をしていますので、それが変化すると苦しみます。現象に執着をしていますので、それが空と言う事になると認めたくない。抵抗します。それて苦しむのです。この苦しみが無明と呼ばれる部分です。では、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めている修行者が観察するとどうでしょうか?空性を感じて今を見ている。今この瞬間にしかない現われを見て尊さを感じるのです。皆さんも感じるでしょう。秋にしか見れない紅葉を見たり、山へ登った清々しい気持ちなど、自然へ触れ合う事でも感じる事ができます。このように空性、変化があるからこそ、今、この瞬間が尊いのです。そのような気持ちで、修行者同士、あるいは目の前に現れる人々、動物たちを尊い存在として大切になさってください。
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いつも、ホームページを拝見しております。お釈迦様の教えとはどこにあるのでしょうか?また、人間的思考の運動が止められるようになった後はどのような修行をするのですか?
お釈迦様の教えは、目の前にあります。つまり私たちの目の前の全ては、お釈迦様の教えです。何故気づかないのでしょうか?それは人間的思考の運動が止まっていないからです。私たちは、人間的思考の運動(快⇔不快)によって視野がどんどん狭くなっています。ですから、同じものを見てもそこには気づきがありません。運動によって半分を見ようとしないので、全体を見る事ができません。つまり一部分しか見ていないのです。私たちは初めに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気づいてその運動を止める練習をします。そして次に目の前の現象に対しての観察と自分の心を観察します。この思考を止めた目で観察することによって今まで見ようとしなかった部分も見る事によって気づきが生まれます。それがお釈迦様の教えです。これが理法です。この修行を積み重ねる事によってそれが智慧となりあなたをニルヴァーナへと導くのです。
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いつも拝見させていただいております。お釈迦様は何故さとりを開かれたのでしょうか?
お釈迦様がさとりをひらかれた理由、それは、世の中の苦しみに気づかれ、世の中には様々な苦しみに襲われている人々がいる。その苦しみを無くしたいと思われたからです。お釈迦様の教えは、別名、苦集滅道とも言われ、これは、苦しみを集めている元を滅する道。これを教えられました。スッタニパータでも出てきますよね?ある修行者がお釈迦様へ苦しみのもとを問いました。
何故、世の人々は苦しむのでしょうか?世の中の苦しみは何をもとに立ち上がるのですか?
そなたは、私に苦しみのもとを問うた。私はそれに答えよう。
世の中にはびこる様々な苦しみは執着を縁として生起するのである。
執着は何を縁として生起するのでしょうか?
執着は、快、不快と言う反応の仕方によって起こるのである。
この事からお釈迦様のお説きになった代表的な教えは、この苦しみを生起させるもとである人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事を中心とした中道を歩む道を教えられたのです。この修行方法こそ苦しみを集めているもとを滅する道なのです。
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いつも、スッタニパータのホームページで勉強させていただいています。仏教には、色々な教えがありますよね?今まで色々勉強してきましたが人によって教える事が違い混乱するばかりです。このような時は、どのようにしたらよろしいでしょうか?
例えば、一頭の象がいるとします。人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が止められないと自分の好きな部分だけしか見なくなりますので、それらの人々は、象の一部分しか見ていません。ですから、象の尻尾しか見ていない人は、尻尾の話しかしませんので筆のようだと言います。鼻しか見ていない人はホースのようだと言う。胴体しか見ていない人は、硬い壁のようだと言う。それぞれの意見を聞くとそれぞれの言っていることは正しいのですが、聞いている人はチンプンカンプンです。それは人間的思考の運動が止められないと、好きなところばかりを見て嫌いなところは排除する。全体が見えていない。ですから、自らの思考の運動を止めて全体を見る事によって、象本来の姿が見えてきます。このような修行をして、視野を広げて、大きくしていく事が修行です。修行序盤では、目の前の事もわからないし、自分の事さえもわからない状態です。それは、思考の運動によって視野が狭くなっているからです。思考を止める事に日々精進して、怠ることなく、行って、視野を広げる事によって、今まで見えなかった。あるいは見ようとしなかった部分に気づき、全体が見えるようになった時に、智慧となり、それが確信となるのです。
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