スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、煩悩による範囲すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、思考は反応せず、執着することがない。かれは人間的思考の運動(欲⇔離欲)である、欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると掴むこともない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの誘惑がある。よく気をつけて、それらからもたらされる煩悩を制するためによく気をつけよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪欲を抑制し中道を保つことに努めよ。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対しての自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を観察し、自らの思考を支配している。このように観じ、思考あるいは煩悩に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。かれは、自らを制し安らぎに帰している。

 

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、それら誓戒による想いに耽(ふけ)って、思考の赴くまま種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、心と現象の観察によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。すなわちあるがままを理解するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

前の師などを捨てて後の師などにたより、依存という煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、失われるものをとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。真理は自分の内にあるものであり、師はそれを導くだけである。故に修行者は、依存する対象を捨て去ることによって、真理を視る。その時に初めて生と死とを乗り越えるのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動を制して、自らの心と身体を観察するほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは思考を制して禍福に汚されることなく、両極端への想いを捨て、この世において禍福の因をつくることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

もしも人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止めずに見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動を止めて煩悩を手放すという正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動による見解を最上の境地に達し得る智慧であると頭で理解する。聖者は、人間的思考の運動を止めたあるがままの境地で現象を見ることによる気づきからもたらさせる智慧を積み重ねることによってのみ真理を視ることができると説く。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

諸々の事物に関して、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が起こり、不確かなものに、たより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)すること(掴むこと)もなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による偏見を掃い去っているのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)による邪悪を掃(はら)い除いた人は、両極端を求めることなく、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして両極端を求めて、輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれは、自立していて、もはやたより近づくものがないのである。