スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は「わがものである」と執着した掴んだ物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変化し滅するものである、と見て、この世での、変化あるものを追い求める活動を求める在家にとどまってはならない。その苦しみを求める行為を離れたところに安穏があるのである。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

あ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世に生を受けたものには必ず死が付きまとう。すなわち生と言う喜びを掴むが故に死が付きまとうのである。そして、この無常の世では、変化が付きまとう、この道理を見ても、修行者は、生に執着をしてはならない。またこの世の無常を感じてこの無常の世から離れるべきである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動を制して、妄想分別をなすことなく、掴むこともないので、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。かれは全てをあるがままに観察し真理へ到達している。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を制して微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる両極端による偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?かれは分別することなく、あるがままに見、そして真理に到達するのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、人間的思考の運動を制することによって、この世についても、来世についても、願うことがない。世の人々は、諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)によってまた生まれてくるのであるから、諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在せず、輪廻から離脱したのである。0

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、すでに得た見解あるいは先入見を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠すして思慮ことをしない。人々は種々異なった見解に分かれて依存しているが、かれは実に党派に盲従いわゆる分別なく人の言うがままに従い依存せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。実に世の人々は、その依存する対象に基づいて感情が動くのであるから、智慧ある修行者は、その依存を離れて安穏に至るのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動による分別をしてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。それら比較対照する思考こそは、人間的思考の運動であり、その運動を止めたところから、智慧へと繋がるのである。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対しての人間的思考の運動(正⇔誤)を制して、こだわってはならない。それらを制して、掴んだものを手放し、分け隔てなく観察したときに、真理を視ることができるのである。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(自分⇔他者)によって両極端に分け、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に人間的思考の運動である。修行者は、この自分とそれ以外と言う不当な思惟を制して、分けることなく世の中を遍歴し、分けることなくあるがままに観察をする。故に全てを見ることによって真理を見出せるのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人は諸々の見解のうちで、それぞれの人間的思考の運動(優⇔劣)によって、自らの見方に合った勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。故に思考の運動に流される人々は諸々の論争を超えることはできないのである。世の中には様々な見方がありそれぞれが輝いていることを知るべきである。