816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれてわき道に落ちたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
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816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれてわき道に落ちたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。
師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は、感覚的感受すなわち目、耳、鼻、舌、蝕、意における快⇔不快の運動を制する教えを失い、二元による邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しい動物的なことがらである。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
自らの人間的思考の運動を制して、邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは自らの心を観察すること以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、あるがままに世の中を見、貪らず、また嫌うこともない。
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動を制して、汚されることがない。
811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。
聖者はなにものにも人間的思考の運動を制することに、とどこおることなく、思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。それらを掴むことも無いので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように聖者は思考を制する者である。
810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
俗世間においての営みすなわち無常の世において失われるものを追い求める行為から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。無常により繰り返される迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
この変化ある無常の世において、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、その変化による憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、無常を見て、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。故に修行者は、自らの状態に固執することなく、全てを手放し、こだわることなく世の中を遍歴し、遂には安穏を観たのである。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。人はこの変化ある世界で、常住を求め苦を生じるのであるから、この無常を感じ、変化の道理を知って、執着の対象から離れるべきである。
806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。
人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明に現象を観察し、この理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。わがものと言う観念は失われる対象への執着でありすなわち苦である。