スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪りを離れ、それらを掴むことなく、あるいは、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。他との比較は、修行とは全く関係のないものであることを知り、かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、自らの人間的思考による運動を制して妄想(もうそう)分別におもむかない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその非難を特に気にかけることはない。かれの修行は、他との比較ではない。他からの影響を受けることもない。自⇔他の分別を打ち破って、自らを観察し、自らを知ることである。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

 

かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。対象に対しての思考の動きを制し、すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。かれは、あるがままに、対象を観察し、それを掴まない。それらに対しての心の動揺を手放して、安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

人が現象に触れた時に、分別が発生する。それが、感情へと作用した時に、その対象に対して運動が発生し欲望となるのである。諸々の欲望への対象に対しの分別を止め、感情へと移行することのない人、ーかれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには思考の運動による縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えたのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

自らの思考の運動に常によく気をつけて、依りかかることのない人は、あるがままに理法を知って、思考の運動を制して、こだわることがないのである。かれには、生存のための妄執(生⇔死)も、生存の断滅(解脱を得る)のための妄執も存在しない。依りかからず、こだわらず、何かを掴もうとせず、追いかけない。それが修行者である。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、平静であって、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて、世間において他人と自分とを思考の運動による想いを制して、等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには、思考の運動がもたらす煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

修行者は、人間的思考の運動(損⇔得)に捉われることなく、常にそれらの運動によく気をつけて学び、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。このように心は安穏を保ち、運動によるこだわり、すなわち妄執のために他人に逆(さから)うことがなく無抵抗の境地を得、食事においても、美味に耽溺(たんでき)することもなく、あるがままに、食を感じる。すなわち地水火風の要素として感じるのである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、またそれらを得ても、高慢にならず、思考を制して、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、想いによる見方で、信ずることなく、心動かすことなく平等にして、なにかを嫌うこともない。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による想いのまま貪る想いから遠ざかり、それらを求めて偽(いつわ)ることなく、それらを求めて貪(むさぼ)り求めることなく、それらを掴んだとしても、慳(ものおし)みせず、それらを掴んだとしても、傲慢(ごうまん)にならず、それらを掴んだとしても、嫌(きら)われず、それらを掴むことができなくても、両舌(かげぐち)を事としない。このように修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、安らぎに帰しているのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

修行者は、自らの人間的思考の運動(良し⇔悪し)による想いを制して、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。現在においても、対象をあるがままに観察をし、自らの思考を制して、感官で触れる諸々の対象について掴むことなく、遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見(良し悪し)に誘われることがない。このように自らの心を制したものが安穏を観るのである。