スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

世の中の学者たちはめいめいの人間的思考の運動(優⇔劣)がもたらす見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)=自らの見方に執着をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。この論じる思考は、完全⇔不完全と言う運動を止める事が出来ないでいるのである。

スッタニパータ 争闘876、877の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

この世において或る賢者たちは、人間的思考の運動(優⇔劣)によって分別した『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は、断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると巧(たく)みに語っている。かの聖者は、これらの人間的思考の運動による偏見は、運動による両極端のこだわりがあると知って、諸々のこだわりを観察し、あるがままに知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。あるがままに真理を知る賢者は、人間的思考の運動がもたらす種々なる変化的生存を受けることがない。

スッタニパータ 争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

人間的思考の運動(正⇔誤)による想いを制し、対象に対して、ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。このように思考を制した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、運動から立ち上がる想いにもとづいて起るからである。」

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求を縁として起る。思考の運動を制して欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。変化と共に形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)とは、感官による接触から起こる反応の仕方にもとづいて起る。感官による接触から起こる反応を制したときには、これらのものも起らない。人間的思考の運動によって繰り返される生起と消滅が発生する意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触から起こる反応の仕方を制する方法をわれは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)による二つの運動があるときに現われる。運動による貪りがある時に怒りが発生し、貪りによって虚言が発生し、貪りを得られないことによって疑惑が発生する。疑惑ある人は知識の道に学べ。修行の達人は、人間的思考の運動を止めてそれらを観察することによって、その理を知って、諸々のことがらを説いたのである。

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中の人間的思考の運動(快⇔不快)と称するものに依って、それらが感情へ作用した時に欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人(修行者)は外的な事物にとらわれた人間的思考の運動(快⇔不快)の反応の仕方による断定を下した一方的な見方によって、怒り、虚言、疑惑が発生するのである。

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応が感情へ作用した欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望(展開)とその成就(転生)とは、その強い執着にもとづいて起る。

スッタニパータ 争闘863の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって掴んだものを手放さない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

かれは世間において、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制した目で、正しく見聞し、わがものという所有がない。またそれらを掴むこともないので、無所有を嘆くこともない。かれは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に自らの人間的思考の運動によく気をつけて実践し平安なる者と呼ばれる。