スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、人間的思考の運動(安心⇔不安)が立ち上がり、「不安」にかられ、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて「安心」を望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ隊商を見つけた時には「安心」し、家から旅立った旅人が家をもとめ、見つけた時には「安心」するようなものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人々は、その「こだわり」によって流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、人間的思考の運動による比較に基づいたこれらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め掴むことがないから、こだわりがない。かれは、自らを拠り所とし、自らを究め知り尽くした存在であって、そもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、思考の運動が止まらない限り平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つの運動だけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地すなわち人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止める事が安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

人間的思考の運動が止められず、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて同じような思考の運動をしている一部の人々から称讃を博するだけである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

自他と言う一方的に決定した立場に立ってみずから人間的思考の運動(清浄⇔不浄)によって考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動を制して一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

自らの一方的な、自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動(清浄⇔不浄)よる運動によって、確執(かくしつ)をもたらすであろう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

ここ、わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。これらは、人間的思考の運動(わが説⇔他の説)である。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの見方に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもってそれらを掴み論ずる。真の修行者とは、自らの見方をも手放して安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉であると、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらはかれらが考える見方に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。修行者とは、自らが考える教えをも掴むことなくそれらを手放して、心を動かしてはならない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となるが、修行には他人の評価は関係しない。また、もしも自分で自らの人間的思考の運動を制して、あるがままに真理を視ることによって、修行の達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになるのである。