スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

見る人は表面的な無常である名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると思い込むであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、無常を常住であると見ることによって清浄になるとは説かないからである。無常を無常であると知って真理を知るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。真理とは、自ら見るものであって、他人が見たことを聞いたところで、何の役にも立たないからである。かれらは、人間的思考の運動を止め、自ら真理を視る道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

真の修行者は、自ら真理を視るものであって、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて一方的な見方をし、断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

かれらは、それぞれが自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。この人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めない事には、真理を視ることはできない。かれらは、自らの見方に固執し、他の見方を見ない。故に全体の真理を視ることが出来ないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるという事が真理であると言うのであれば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみなそれぞれの人間的思考の運動(優⇔劣)による見方によって自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。真の修行者とは、この運動を離脱したところに安穏を観るものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは人間的思考の運動(自⇔他)により自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。真の修行者とは、この人間的思考の運動(自⇔他)を打ち破って、その運動を制し、その枠を超えて真理を視るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。それぞれの見方に固執し、その他のものを排除する。全体を見ることが出来ないかれらは真理を視る事が出来ないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

人間的思考の運動によるねがいをねがい求める者には両極端の運動がある、また、掴んだものを失う事にはからいのあるときには、掴んだものを失うおののきがある。この世において死も生も在しない者、すなわち何も掴むことがないものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、自らの修行方法を掴み、固執し、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。それらをも手放す事によって安穏を観るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

修行者は一切の束縛を離れ、戒律や誓いをも捨て、世間の人間的思考の運動である「罪過(ざいか)あり」⇔「罪過なき」この(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」⇔「不浄である」とかいって運動によるねがいを求めることもなく、自らの思考の運動を制し、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執し掴むこともなく、全てを手放し解放されよ。