スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2019年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的な人間的思考の運動(優⇔劣)による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知るすなわち自分の考えに執着することがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?こだわることは執着である。自らの考えにこだわり、他(不快)を排除しようとする。同等の意見が快なのである知者はこの快⇔不快の運動は苦であることを知って自らの運動を制し安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難という人間的思考の運動である二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

 

これらの人間的思考の運動(優⇔劣)による偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じような見方をする人々から称讃を博するだけである。このように運動にもとづいた見方に執着をすると、ある時は称賛され、ある時は非難されるという運動を招くのである。それを知って聖者はその運動による反応の仕方によく気をつけ、その運動から出たところに智慧を視たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは、その他の見方による人々と世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定による執着を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

 

自分の見方を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。かれは、自ら人間的思考の運動(優⇔劣)に陥り道を踏み外しているのだから。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)により、ここ、わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの考えに執着し、かの自分の執着した道を堅(かた)くたもって論ずる。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

「このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人である」と、人間的思考の運動(優⇔劣)により自らの説に執着した一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して両極端(優⇔劣)の汚(けが)れに染まっているからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となる。また、もしも自分で修行の達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。このように論争に及ぶ者たちは、お互いに人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げるが故に賢者となりえないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889の解説

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

かれは誤(あやま)った人間的思考の運動(優⇔劣)による妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。しかし、それは、運動をするので、優(優越感)の想いは運動によって劣(劣等感)へと変化するのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)によって反対者を愚者であると見なすとともに、自己を真理に達した人であるという。かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、他人を蔑視し、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げそのように語る。聖者は、人間的思考の運動を制するものであって、運動のままに行動をするものではない。