スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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02月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

「このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人である」と、人間的思考の運動(優⇔劣)により自らの説に執着した一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して両極端(優⇔劣)の汚(けが)れに染まっているからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となる。また、もしも自分で修行の達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。このように論争に及ぶ者たちは、お互いに人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げるが故に賢者となりえないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889の解説

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

かれは誤(あやま)った人間的思考の運動(優⇔劣)による妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。しかし、それは、運動をするので、優(優越感)の想いは運動によって劣(劣等感)へと変化するのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)によって反対者を愚者であると見なすとともに、自己を真理に達した人であるという。かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、他人を蔑視し、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げそのように語る。聖者は、人間的思考の運動を制するものであって、運動のままに行動をするものではない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

 

人間的思考の運動(二元の運動)による偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視(べっし)あるいは分別し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。これら両極端の思考は、ある時は喜びある時は、苦を生じるすなわち苦の流転のさなかにあるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の人間的思考の運動(真理⇔虚妄)による偏見にもとづいて思索考究を行って、「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。これを見て修行者は、この人間的思考の運動を止めた自らに真理を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

各々が知りえる真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、寂静にして争うことがない。かれらは。それぞれが知りえた異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は、同一の事を語らないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(優⇔劣)が立ち上がった修行者は同一の事を語らないのであろうか?人間的思考の運動(優⇔劣)を制した修行者は、真理である、真実であるとも言わないし、虚偽である虚妄であるとも言わない。自らの内に真理をみいだし、また、その心理に執着することもなく、また、他にアピールする必要も無いからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

 

諸々の愚者すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)の範疇にあるものが相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。知者とは、このような両極端の思考による運動から離脱したものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の智慧によって清らかとなり、自分の智慧によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの智慧はその点で等しく完全であるからである。しかるに人間的思考の運動による偏った見方によって自らの見方が優れ他者の見方が劣っているとみるのであれば、それは、人間的思考の運動(優⇔劣)であるから揺らぐ自らの考えに執着しているのである。