1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。
このことをよく知って、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、現世において全く両極端の煩(わずら)いを離れた人々は、常に中道である安らぎに帰(き)している。両極端の反応の仕方を制し世間の執著を乗り超えているのである」と。
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1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。
このことをよく知って、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、現世において全く両極端の煩(わずら)いを離れた人々は、常に中道である安らぎに帰(き)している。両極端の反応の仕方を制し世間の執著を乗り超えているのである」と。
1084 ヘーマカさんがたずねた、「かつてゴーダマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といってわたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。それはすべて思索の紛糾(ふんきゅう)を増すのみ。わたくしはかれらの説を喜びませんでした。
1085 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を保つことが不滅へのニルヴァーナの境地である。
ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたりを人間的思考の運動(快⇔不快)によって識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。
1081 ナンダさんがいった、「およそこれらの〈道の人〉・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。聖者さま。もしもあなたが『かれらは未(いま)だ煩悩の激流を乗り超えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り超えた人は誰なのですか?親愛なる先生!あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」
1082 師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究(きわ)め明(あか)かして、心に汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。』
師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・修行者たちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いにもとづいた人間的思考の運動による分別をすっかり捨て、また種々の反応のしかたをもすっかり捨てて、人間的思考の運動による反応の仕方によって立ち上がる妄執をよく究(きわ)め明(あか)かして、心に両極端の汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。
1079 ナンダさんがいった。「およそこれらの〈道の人〉・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。そのほか種々のしかたで清浄になれるとも言います。先生!かれらはそれらにもとづいてみずから制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り超(こ)えたのでしょうか?わが親愛なる先生!あなたにおたずね致します。それをわたくしに説いてください。」
1080 師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。これらの〈道の人〉・バラモンたちはすべて、〈哲学的〉見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になるとも説く。(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたしは言う」
師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。これらの道の人・修行者たちはすべて、哲学的見解による分別によって清浄になり、また伝承の学問による分別よっても清浄になると説く。戒律や誓いを人間的思考の運動によって守ることによっても清浄になり、守らなければ、清浄にならないとも説く。そのほか種々の分別のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらの分別にもとづいてみずから制して行っていても、人間的思考の運動すなわち分別を止めない限りは、生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたしは言う」
1077 ナンダさんがたずねた、「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか?世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか?あるいは〔簡素な〕生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」
1078 (ブッダが答えた)、「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、ーかれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
ブッダが答えた、「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、人間的思考の運動である哲学的見解によって両極端に分けても、伝承の学問によって両極端に分けても、知識によって両極端に分けても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍である人間的思考の運動を撃破して、両極端の苦悩なく、両極端を望むことなく行う人々、ーかれらこそ中道を歩む聖者である、とわたしは言う。」
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
師は答えた、「ウパシーヴァよ。思考の運動が滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずる偏った運動が、かれには存在しない。あらゆる運動がすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
1073 「あまねく見る方(かた)よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼(しょうりょう)となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」
1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって火としては数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱してその両極端の想いは滅びてしまって、存在する者としては数えられないのである。」
1071 ウパシーヴァさんがいった、「あらゆる欲望に対する貪(むさぼり)りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか?」
1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる人間的思考の運動(好き⇔嫌い)にもとづいた欲望に対する貪りを離れ、両極端を取らない無所有にもとづいて、両極端の思考を捨て、最上の両極端の想いからの解脱において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、中道に安住するであろう。」
1069 ウパシーヴァさんがたずねた。「シャカ族の方よ。わたくしは。独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流を渡ることはできません。わたくしがたよってこの激流をわたり得る〈よりどころ〉をお説きください。あまねく見る方よ。」
1070 師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩(ぼんのう)の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけて、無所有をめざしつつ、『この世は無常である』と思うことによって、煩悩(ぼんのう)の激流を渡れ。諸々の両極端に基づく欲望を捨てて、諸々の分別による疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えましょう。」
1068 師は答えた、「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、ーそれは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
師は答えた、「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、ーそれは世の中における人間的思考の運動が起こる対象すなわち執著の対象であると知って、その運動によって移りかわり運動する生存への妄執をいだいてはならない」と。