スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  武器を執ること 945の解説

945 わたくしは、(牽引する者のことを)遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。

 

 

 

 

わたくしは、人間的思考の運動による反応の仕方を遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。このことを知ったならば、修行者よ自らの人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方に日々気をつけ激流を乗り越えよ。

スッタニパータ  武器を執ること 944の解説

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者〔妄執)にとらわれてはならない。

 

 

 

年老いたものは、古いものを好み、若きものは新しいものを好む。ものごとを新しい⇔古いに分けて人間的思考の運動をする。古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。この世は無常であり空である事を知って、滅びゆくものを悲しんではならない。人間的思考の運動によって牽引(けんいん)する妄執にとらわれてはならない。このように修行者は、常に人間的思考の運動を制して中道を歩み彼の岸へと向かうのである。

 

スッタニパータ  武器を執ること 943の解説

943 虚言(うそ)をつくように誘(ひ)き込まれるな。美しいすがたに愛着を起こすな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

 

 

 

人間的思考の運動によって欲したものを得るために虚言(うそ)をつくように誘(ひ)き込まれるな。目から入る情報も、美しい⇔醜いに分ける事なく、美しいすがたに愛着を起こすな。また人間的思考の運動によって欲する物を得て立ち上がる慢心を知りつくしてなくすようにせよ。自らの反応の仕方に注意するとともに、周りにもよく気をつけ、粗暴になることなく、ふるまえ。そして修行者は、安らぎへと到達するのである。

 

スッタニパータ  武器を執ること 942の解説

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰(たいだ)を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

 

 

 

 

安らぎを心がける人は、しっかりと目を覚まし、自らの反応の仕方に集中せよ。人間的思考の運動による反応の仕方をしないように集中することを怠ってはならない。自らに付着する人間的思考の運動による先祖の想いをも悟し、常に反応の仕方に注視せよ。そのことを怠らないならば、修行者よ汝は彼の岸へと到達するであろう。

スッタニパータ  武器を執ること 941の解説

941 聖者は誠実であれ。傲慢(ごうまん)でなく、詐(いつわり)りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪(よこし)まな貪りと慳(ものおし)みとを超(こ)えよ。

 

 

聖者は誠実であれ。人間的思考の運動を制して傲慢(ごうまん)でなく、詐(いつわり)りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪(よこし)まな貪りと慳(ものおし)みとを超(こ)えよ。これらは全て人間的思考の運動に関連して起こる。人間的思考の運動「高慢⇔悲観」により高慢が起こり、「快⇔不快」の運動により何かを得るためにあるいは不快を排除するために「いつわり」が起こる。また、不快により悪口が起こり、怒りが生じる。また快を得れない場合も怒りが生じる。そうして、この両極端の欲望を貪り求める。またそれを得ては、手放したくなく「ものおしみ」が起こる。これらが起こった場合は、すべて人間的思考の運動をしているものと知れ。聖者はそれを知って、あらゆる人間的思考の運動を制して遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  武器を執ること 940の解説

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。

 

 

 

そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ー世間における諸々のである人間的思考の運動によって分別された束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。

スッタニパータ  武器を執ること 939の解説

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこちを)駆(か)けめぐることもなく、沈むこともない。

 

 

 

この煩悩の矢に貫かれた者すなわち人間的思考の運動を止められない人々は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、あちこちを駆(か)けめぐることもなく、沈むこともない。人は、人間的思考の運動によって、快⇔不快の運動をし、快を求めて、あるいは不快を排除しようと駆け巡るのである。そして快をつかむが、それは運動をするので必ず不快へと変化する。そうして沈むのである。この理を知ったならば、修行者よ、自らの人間的思考の運動を制して安らぎを学べ。

スッタニパータ  武器を執ること 938の解説

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。

 

 

 

 

生きとし生けるものは死に直面したときにおいては逆さづりに会うほどに苦しむのを見て、わたくしは気の毒になった。またわたくしはその生けるものどもの心の中に見がたき人間的思考の運動による煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。すなわち人は、死ぬまでにこの人間的思考の運動を制する事ができなければ、逆さづりに合うほどの苦しみを伴うのである。人間の人間的思考の運動による執着が最も強い対象は自らの肉体と自らのものだと思い込んでいる手にしている物だからである。

スッタニパータ  武器を執ること 937の解説

937 世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

 

 

世界はどこも中道ではない。どの方角でもすべて運動している。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった。人間的思考の運動によって人は、執着をする。その苦しみ、禍福による苦しみ、その念が、あらゆるところに、存在しているのである。人は、この人間駅思考の運動によって苦しみ、それに気づかず迷い彷徨う。その念に触れると同調してゆく、そうして、また人間的思考の運動を繰り返すのである。ゆえに修行者は、自らの人間的思考の運動に常に気をつけ、存在する念に同調することもなく中道を保ち彼の岸へと到達せよ。

 

スッタニパータ  武器を執ること 936の解説

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

 

 

 

水の少ないところにいる魚のように、人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。これは、人間的思考の運動(戦争⇔平和)である。人々は、繰り返される人間的思考による平和を目指して戦争を繰り返す。これは、必ず運動をするので、平和らしきものであり、真の平和ではない。時間とともに戦争へと運動するのである。それは、まるで水の少ないところにいる魚のようである。この両極端の運動を止めたところに真の平和があることを知るべきである。