スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ818の解説

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

 

 

かれは諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による想いに執着しているためにその想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。そのような修行者はあるときは、尊ばれるが、必ず反対方向へ運動をするので、このように非難される。すなわち人間的思考の運動によって幸⇔不幸と変化をくりかえしていくのである。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ817の解説

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

かつてかれのもっていた名誉も名声のもととなっていた仏性が人間的思考の運動(快⇔不快)によってすべて失われる。このことわりをも見たならば、この両極端の運動にもとづいた欲望による淫欲の交わりを制することを学べ。聖者はこの人間的思考の運動を制して、中道から来るところの仏性へとエネルギーを転換して遂には目覚めた人となるのである。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

 

かつては独りで暮らして人間的思考の運動(快⇔不快)を制する生活をしていたのに、のちに人間的思考の運動(快⇔不快)の赴くままに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。すなわち中道と言う道をを外れたのである。世の人々は両極端の反応に赴いたかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ815の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は、人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を制するという教えを失い、人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端な行いをする。これはかれのうちにある人間的思考の運動にもとづいたことがらである。人はこの運動に牽引されて苦へと向かうのである。

スッタニパータ  老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

 

邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも人間的思考の運動を立ち上げて執着して考えることがない。かれは人間的思考の運動を止める中道以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、日々人間的思考の運動を気をつける修行を貪らず、また嫌うこともない。そうして彼の岸へと向かうのである。

スッタニパータ  老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動による反応の仕方に注視し、汚されることがない。修行者もこのように日々自らの人間的思考の運動による反応の仕方に注意し、それを制するのである。限りなく注意し、人間的思考による両極端の反応を制したならば、蓮の葉の上の水がはじけるようになにものにも汚されなくなるであろう。そうして彼の岸へ到達したとき、修行者の仏性が目覚めるのである。

 

スッタニパータ  老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

 

聖者はなにものにも人間的思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。人間的思考の運動(悲⇔惜)による悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないように、かれは、人間的思考の運動による反応の仕方に汚されることはない。

スッタニパータ  老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の領域より独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域すなわち人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の反応の仕方に自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

スッタニパータ  老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、この失われてゆく無常の世で、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、人間的思考の運動を制止して、所有を捨てて、日々制する修行を行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

スッタニパータ  老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この無常の世は、ただ、ただ、変滅あるのみである。生れ変化し滅する。この運動(生⇔死)を繰り返す。この運動は人間的思考の運動(生⇔死)より来る。この運動を繰り返す限り解脱することは不可能なのである。それを知って聖者は、この運動を止めて彼の岸へと到達し遂には安穏を観たのである。