スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動である得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。それは運動をするのであるときは称賛となりあるときは非難を浴びる。そのような運動をするものだと知れ。聖者は、その人間的思考の運動を離脱したところに安穏を観たのである。

スッタニパータ  パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、この両極端の論争に敗北した者は嘆き悲しみの方へと運動し、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。すなわち周りのものが称賛すると「喜び」非難すると「悲泣」する喜⇔悲と言う人間的思考の運動によるものである。修行者はこのことをよく知って、人間的思考の運動には、苦がつきまとうことを知って、苦を集めている運動を滅する道を歩め。

スッタニパータ  パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

集会の中で論争に参加した者は、人間的思考の運動(快⇔不快)により快と感じる称賛をされようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。このような人間的思考の運動による反応の仕方に陥るのである。修行者は、自らの反応の仕方に常に気をつけ、人間的思考の反応の仕方を回避して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ  パスーラ825の解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

かれらは人間的思考の運動(称賛⇔非難)により論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、師などをかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しているにもかかわらず、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げて、自分が称賛されるようにと望んでいるのである。これを見て修行者は、人間的思考の運動を立ち上げてはならない。それを制する事が修行であり真理なのである。

 

スッタニパータ  パスーラ824の解説

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

 

かれらは諸々の教えを両極端に分別し「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。これが人間的思考の運動(善⇔悪)である。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々のかれらが考える人間的思考の運動による真理に固執(こしゅう)している。かれらは、真理を目指すと言いながら、両極端に道を踏み外しては、争論に至るのである。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ823の解説

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

 

聖者は諸々の人間的思考の運動がもたらす欲望を顧(かえり)みることなく、人間的思考の運動を離れて修行し、それを制し激流を渡りおわっているので、諸々の人間的思考の運動による欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。人間的思考の運動に束縛されていると、禍福が縄の如く人々に襲いかかる。それを知って修行者よ人間的思考の運動に気をつけることを常とし、彼の岸へと渡るのだ。と師は言われた。

 

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ822の解説

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

 

人間的思考の運動による世界いわゆる俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。この人間的思考の運動を制止して、そこから繋がるところの仏性に通じる。それが仏への道である。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ821の解説

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

 

聖者はこの世で前後に人間的思考の運動(快⇔不快)にはこの快、不快が交互に現れる災いのあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制する修行を堅(かた)くまもれ。人間的思考の運動(快⇔不快)に流されて淫欲の交わりに耽ってはならない。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ820の解説

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制している修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求めて淫欲の交わりに耽ったならば、それは人間的思考の運動すなわち快、不快を繰り返す運動に陥るので愚者のように悩むのである。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ819の解説

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)に陥って思い悩み、そうして他人に詰(なじ)られた時には更に人間的思考の運動(良⇔悪)により虚言に陥(おちい)る。すなわち、自らを傷つける刃(悪行)である人間的思考の運動による波をつくるのである。これがかれの大きな難所である。このように激流が激流をよぶと知れ。