スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  争闘863の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により執着したものを手放したくない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、身口意の業が生じ、悪口が起る。」

 

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

 

かれは世間において両極端(人間的思考の運動(好き⇔嫌い)に分ける事がないので、わがものという所有がない。また分けないが故に無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道に帰した平安なる者と呼ばれる。」

スッタニパータ  死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、人間的思考の運動を制止し、貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも、心は動揺(運動)(喜⇔悲)せず、論ずることがない。人間的思考の運動を完全に止めたかれは分別(ふんべつ)による荒波を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。かれは、安穏に満ちているのである。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

 

俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその非難を特に気にかけることはない。かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方を熟知し、制している。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

スッタニパータ  死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

かれには、子も、家畜も、田畑も、地所に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が認められない。全ての人間的思考の運動に対しての反応の仕方を制して、ついには、安穏を観たのである。

スッタニパータ  死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

諸々の人間的思考の運動を制し、人間的思考の運動からなる欲望を顧慮(こりょ)(欲)することのない人、ーかれこそ平安なる者(聖者)である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに諸々の人間的思考の運動による反応の仕方を制し、執着を渡り了(お)えた。

スッタニパータ  死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

両極端に依りかかることのない人は、理法すなわち人間的思考の運動を止める事を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。その想いによる運動をも制して寂静に帰しているのである。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

平静(中道)であって、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけていて、世間において両極端の思考が立ち上がらないように制し、他人と自分とを比較し等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれの人間的思考の運動は、制され煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。人間的思考の運動(喜⇔悲)が立ち上がると、他人と自分を常に比較しては、勝っていると喜び、劣っていると悲しみ、等しいと思うと安堵する。このように常に人間的思考の運動により世の人々は一喜一憂し執着するのであるから、修行者よ、これらを制して、中道を歩むのである。

 

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

 

次に修行の心得が語られる。人間的思考の運動(損⇔得)により、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、人間的思考の運動(怒⇔喜)を制して、怒ることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)による妄執のために他人に逆(さから)う(争う)ことがなく、人間的思考の運動(旨⇔不味)を制し美味に耽溺(たんでき)することもない。全ての反応の仕方に中止して、修行に励み中道を歩め。

スッタニパータ  死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢⇔消沈の運動を制し高慢にならず、常に、中道を歩み、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、両極端に信ずることなく、なにかを排除しようと嫌うこともない。このように聖者は歩むのである。