スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

この世は無常である。夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。故に執着は苦なのである。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

 

この世は無常である。この世は常に変化する。すなわち空である。人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)=無常(空)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が渦巻く在家にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この無常の世では、ただ変滅あるのみ。我が身も常住ではない。修行者は、過去にこだわることなく、現在にこだわることなく、また未来においても苦がつきまとう喜びを捨て去って遍歴せよ。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

 

かれらは、人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、妄想分別をなすことなく、両極端に分けた、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の人間的思考の運動がもたらす協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳による優⇔劣の運動によっても導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、人間的思考の運動(優⇔劣)を制して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。両極端によるいかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、人間的思考の運動(優⇔劣)による両極端に対し、いままで生まれ変わった種々の生存に対し人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方をすることなく、今生についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して人間的思考の運動(優⇔劣)による断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、過去に分別して得た見解〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は人間的思考の運動(優⇔劣)により種々異なった見解に分かれているが、かれは実に分けないので、党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)による分け方をそのまま信ずることはない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方を制し、偏見をかまえてはならない。両極端に分ける事によって、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。その運動を制したところに中道があるのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

 

人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して人間的思考の運動(優⇔劣)が立ち上がり「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実に両極端による思考の運動によるこだわりである、と真理に達した人間的思考の運動を制した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわって人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げてはならない。