スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

 

「人間的思考の運動(わが説⇔他の説)によって、このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の人間的思考の運動による両極端に偏った見方に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。それを見て、修行者よ、両極端に汚されることなく中道を歩め。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

 

もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は、自らの人間的思考の運動(賢者⇔愚者)の運動を制してないのであるから愚劣な者となる。相手もその運動に巻き込まれたならば、ともに愚劣となってしまう。また、もしも自分で人間的思考の運動(賢者⇔愚者)を制したヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇889の解説

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

 

かれは誤(あやま)った人間的思考の運動(真理者⇔愚者)による妄見を以てみたされ、自らを真理者と思い込み、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。それは、運動をするので次第に正反対の物(愚者)へと変化していく。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

 

反対者を愚者であると見なすとともに、自己を真理に達した人であるという。かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、他人を蔑視し、そのような人間的思考の運動(真理者⇔愚者)をしている。それは運動をするので、あるときは真理に達したようなものに見えるかも知れないが、時間と共に愚者へと運動をする。かれらは鎖でつながれたように同じ運動を繰り返し、激流へと呑まれてゆく。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

 

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して人間的思考の運動(安心⇔不安)を抑制できず、他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。見方が両極端なのである。そうして、同様の見方をする人間を見つけては、安心し、反対の見方をするものを排除しようとする。そうして、安心を得るために伝承の学問や誓いや思想、あるいは師に依存するが、それは、揺らぐ物、変化するこの無常の世に存在するものなのであるから、変化し消滅する。そうして、依存する物がなくなったときに不安になるのである。安心⇔不安このような運動をする人間的思考の運動によるものだと知れ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」⇔「(他人の説は)虚妄である」と人間的思考の運動である二つのことを説いているのである。それは運動するので、あるときは真理と感じあるときは、虚妄となるような運動をする。永久ではなく変化する人間的思考の運動による範疇にあるのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

 

 

真理は一つ人間的思考の運動を止め真理に繋がることであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、両極端に争うことがない。かれらは、人間的思考の運動を制してめいめい異なった考え方である真理をほめたたえている。それ故に諸々の道の人は同一の事を語らないのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその人間的思考の運動(真実⇔虚偽)による見方をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端の執見をいだいて論争する。何故に諸々の修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、かれらが人間的思考の運動(真実⇔虚偽)の運動を制する事が出来ず論争に陥ったのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の人間的思考の運動による偏った見方を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは、反対の考えを排除しようと他人を「愚者」であると決めつけるのである。人間的思考の運動に陥ると、同様の考え方のみ受け入れ、その他のものを排除しようとする。このような反応の仕方をするのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の人間的思考の運動(好む⇔好まない)である好みによる見方によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は、その点(好みにおいて)で等しく完全であるからである。好みにこだわることは、人間的思考の運動(好む⇔好まない)である両極端の運動であるから、中道から知性に繋がる修行から著しく脱落しているのである。