スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

2018年

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは、見たこと、学んだこと、思索した両極端の思考にもとづき、声を高くして、清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による妄執を離れていないので、清浄⇔不浄と運動をし移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

 

一切の戒律や誓いによる人間的思考の運動(安心⇔不安)をも捨て、世間による人間的思考の運動(罪過(ざいか)あり⇔なし)というような宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)とかいってねがい求めることもなく、それらの人間的思考の運動を制してに行え。ー安らぎを固執することもなく。中道を歩むのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののき「不安」となる。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めて「安心」している。たとえば隊商からはぐれた商人が「不安」なりに隊商をもとめみつけたら「安心」する、家から旅立った旅人が「不安」にかられ、家をもとめ見つけると「安心」するようなものである。すなわち人間的思考の運動(安心⇔不安)と言う激流のうちにある。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達したと称する人々は、この人間的思考の運動(制戒を受けた⇔受けない)という両極端の流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。制戒を受けたから清浄になるのではない。制戒を受けないから清浄になれないのではない。その両極端の想いを制したもの、かれこそは清浄なるものなのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解すなわち人間的思考の運動による両極端の反応の仕方に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて両極端に分ける事は無く「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?両極端を制した聖者は中道を歩むのみである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは同様の反応の仕方をする僅かなものであって、人間的思考の運動による両極端の反応の仕方であるから平安を得ることはできない。論争の結果は、称讃⇔非難との運動、二つだけである、とわたくしは説く。この運動を見ても、汝らは、無論争の中道である境地を安穏(あんのん)であると観じて、両極端を制し、論争をしてはならない。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

 

これらの人間的思考の運動による偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じような見方をする人々から称讃を博するだけである。実にこの世の中は、おおよそ半分の人々は、正反対の見方をする。従って一方的で断定的な見方をすると、必ず正反対の意見を受ける。それを知って修行者は、両極端の思考から離れ中道を歩んで、彼の岸を目指すのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

人間的思考の運動による両極端に分け、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは、反対者を排除しようと、世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定すなわち人間的思考の運動(正⇔誤)を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。そうして中道を歩み寂静に帰するのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

 

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による確執をもたらすであろう。かれは、自らの人間的思考の運動を止めようとせずかたくなに論じているが、聖者はその運動を止めて激流を渡るものである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

 

ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまな自らの説に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。これは、人間的思考の運動(自説⇔他説)である。それを知って、かの聖者は、運動を制して彼の岸へと渡ったのである。