スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

修行者は、人間的思考の運動のあり方を正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。分別による偏った見方に流されず、過去に分けた知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の分け方あるいは運動の仕方を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しては、運動しているのだが。-

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

 

人間的思考の運動で両極端に分け「われは知る」「われは見る」ということに執着して論ずる人は、みずから構えた両極端な偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。この両極端の思考に陥ると全てを見ることは出来ない。聖者はこの人間的思考の運動を制してすべてを見る。すなわち大円境地の思考で観るのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

 

 

人間的思考の運動(楽⇔苦)によって分別する人は、名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを分別することによって清浄になるとは説かない。その人間的思考の運動を止めたところにこそ真理への道があるのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。清浄になる道は、自らの反応のしたかに気をつけ自らの人間的思考の運動を制する道である。他人が気をつけることが出来ようか、他人が見たところで、気をつけることができようか、かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

 

真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて両極端に分け断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争の原因である人間的思考の運動を超越している。両極端の思考は抑えられ、他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

 

 

 

 

かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。これは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)である。彼らの主張どうりであれば、一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ人間的思考の運動を止めないまま清浄となれるからである。これを見て賢明な修行者は、このような人間的思考の運動にもよく気をつけ、巧みに立ち上がる人間的思考の運動による荒波を回避せよ。

 

 

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。人間的思考の運動が止められない、けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。かれらは運動(優⇔劣)によって世の中をうろつく激流のうちにあるのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。賢明な修行者であれば、かれらの完全⇔不完全と言う運動が人間的思考の運動であると気づくであろう。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。そうしては快(自らと同じ教え)を貪り不快(その他の教え)を排除しようして、激流に飲み込まれてゆくのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。おおよそ半分の人間は、全く逆の見方をするものである。この両極端により形成された無常の世界は、そのようなものだと知れ。そうして、人間的思考の運動(最高⇔下劣)に陥った人々は、その両極端の見方にそれぞれ執着をするのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

ねがい求める者には両極端の欲念がある、また、何かを失いたくなく、はからいのあるときには、両極端に対するおののき(執着)がある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。人間的思考の運動(快⇔不快)にとらわれた人々は、快を得ては、失うことを恐れ、それを欲するが、運動をするので必ず不快がかれを襲う。故に「はからう」のである。しかしながら快を得たものには必ず運動により不快が襲いかかるのであるから、かれはそれに恐れおののく。そうして運動しては次の快を求めてまた生れてくるが、運動をするのでそれは失われ、また生を欲するのである。それが輪廻転生である。聖者はそれを知って、人間的思考の運動を制する。かれにはもはや生も死も在しない。すなわち解脱したのである。