スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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07月

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

 

反対者を愚者であると見なすとともに、自己を真理に達した人であるという。かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、他人を蔑視し、そのような人間的思考の運動(真理者⇔愚者)をしている。それは運動をするので、あるときは真理に達したようなものに見えるかも知れないが、時間と共に愚者へと運動をする。かれらは鎖でつながれたように同じ運動を繰り返し、激流へと呑まれてゆく。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

 

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して人間的思考の運動(安心⇔不安)を抑制できず、他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。見方が両極端なのである。そうして、同様の見方をする人間を見つけては、安心し、反対の見方をするものを排除しようとする。そうして、安心を得るために伝承の学問や誓いや思想、あるいは師に依存するが、それは、揺らぐ物、変化するこの無常の世に存在するものなのであるから、変化し消滅する。そうして、依存する物がなくなったときに不安になるのである。安心⇔不安このような運動をする人間的思考の運動によるものだと知れ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」⇔「(他人の説は)虚妄である」と人間的思考の運動である二つのことを説いているのである。それは運動するので、あるときは真理と感じあるときは、虚妄となるような運動をする。永久ではなく変化する人間的思考の運動による範疇にあるのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

 

 

真理は一つ人間的思考の運動を止め真理に繋がることであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、両極端に争うことがない。かれらは、人間的思考の運動を制してめいめい異なった考え方である真理をほめたたえている。それ故に諸々の道の人は同一の事を語らないのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその人間的思考の運動(真実⇔虚偽)による見方をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端の執見をいだいて論争する。何故に諸々の修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、かれらが人間的思考の運動(真実⇔虚偽)の運動を制する事が出来ず論争に陥ったのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の人間的思考の運動による偏った見方を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは、反対の考えを排除しようと他人を「愚者」であると決めつけるのである。人間的思考の運動に陥ると、同様の考え方のみ受け入れ、その他のものを排除しようとする。このような反応の仕方をするのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の人間的思考の運動(好む⇔好まない)である好みによる見方によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は、その点(好みにおいて)で等しく完全であるからである。好みにこだわることは、人間的思考の運動(好む⇔好まない)である両極端の運動であるから、中道から知性に繋がる修行から著しく脱落しているのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて人間的思考の運動による反応の仕方で各自の両極端に偏った見方に執着しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧から遠ざかった者であるということになる。なぜならば人間的思考の運動を制してこそ智慧と繋がることができるからである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

 

かれらはこのように異なった人間的思考の運動(正⇔誤)による執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?かれらは互いに人間的思考の運動を繰り返し、あるときは称賛されるが、それは運動をするので、あるときは非難をされる。そうして、このような変化を繰り返し無常の激流へと飲み込まれていくのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

 

世の中の学者たちは、めいめいの人間的思考の運動(正⇔誤)による偏った見方に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と人間的思考の運動(真理⇔不完全)による運動を繰り返す。その運動を止めたところに真理と繋がるのだが。