スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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07月

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。清浄になる道は、自らの反応のしたかに気をつけ自らの人間的思考の運動を制する道である。他人が気をつけることが出来ようか、他人が見たところで、気をつけることができようか、かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

 

真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて両極端に分け断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争の原因である人間的思考の運動を超越している。両極端の思考は抑えられ、他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

 

 

 

 

かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。これは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)である。彼らの主張どうりであれば、一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ人間的思考の運動を止めないまま清浄となれるからである。これを見て賢明な修行者は、このような人間的思考の運動にもよく気をつけ、巧みに立ち上がる人間的思考の運動による荒波を回避せよ。

 

 

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。人間的思考の運動が止められない、けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。かれらは運動(優⇔劣)によって世の中をうろつく激流のうちにあるのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。賢明な修行者であれば、かれらの完全⇔不完全と言う運動が人間的思考の運動であると気づくであろう。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。そうしては快(自らと同じ教え)を貪り不快(その他の教え)を排除しようして、激流に飲み込まれてゆくのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。おおよそ半分の人間は、全く逆の見方をするものである。この両極端により形成された無常の世界は、そのようなものだと知れ。そうして、人間的思考の運動(最高⇔下劣)に陥った人々は、その両極端の見方にそれぞれ執着をするのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

ねがい求める者には両極端の欲念がある、また、何かを失いたくなく、はからいのあるときには、両極端に対するおののき(執着)がある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。人間的思考の運動(快⇔不快)にとらわれた人々は、快を得ては、失うことを恐れ、それを欲するが、運動をするので必ず不快がかれを襲う。故に「はからう」のである。しかしながら快を得たものには必ず運動により不快が襲いかかるのであるから、かれはそれに恐れおののく。そうして運動しては次の快を求めてまた生れてくるが、運動をするのでそれは失われ、また生を欲するのである。それが輪廻転生である。聖者はそれを知って、人間的思考の運動を制する。かれにはもはや生も死も在しない。すなわち解脱したのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは、見たこと、学んだこと、思索した両極端の思考にもとづき、声を高くして、清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による妄執を離れていないので、清浄⇔不浄と運動をし移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

 

一切の戒律や誓いによる人間的思考の運動(安心⇔不安)をも捨て、世間による人間的思考の運動(罪過(ざいか)あり⇔なし)というような宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)とかいってねがい求めることもなく、それらの人間的思考の運動を制してに行え。ー安らぎを固執することもなく。中道を歩むのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののき「不安」となる。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めて「安心」している。たとえば隊商からはぐれた商人が「不安」なりに隊商をもとめみつけたら「安心」する、家から旅立った旅人が「不安」にかられ、家をもとめ見つけると「安心」するようなものである。すなわち人間的思考の運動(安心⇔不安)と言う激流のうちにある。