792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
人間的思考の運動(正⇔誤)による想いから誓戒(せいかい)をたもつ人は、その想いに耽(ふけ)って、これが正しいこれは間違えていると種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、修行によって知り、中道を保ち心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
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792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
人間的思考の運動(正⇔誤)による想いから誓戒(せいかい)をたもつ人は、その想いに耽(ふけ)って、これが正しいこれは間違えていると種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、修行によって知り、中道を保ち心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
人間的思考の運動(正⇔誤)による信仰に陥ると、前の師などを捨てて後の師などにたより運動をする。煩悩の運動(正⇔誤)に従っている人々は、両極端の想いによる執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。そのような運動をする。猿が枝をとらえて、また放つような運動をしているようなものである。
790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
目覚めた修行者は、中道のほかには、人間的思考の運動(正⇔誤)によって導かれた見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。それは運動をするのであるときは禍となりまたあるときは福となり激流を創る。目覚めたかれは人間的思考の運動(禍⇔福)に汚されることなく、人間的思考の運動によるこだわりを捨て、この世において人間的思考の運動(禍⇔福)による両極端である激流の因をつくることがない。ゆえにかれは寂静なのである。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
もしも人が人間的思考の運動(正⇔誤)による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が人間的思考の運動(正⇔誤)による智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(正⇔誤)にとらわれている人が中道以外の人間的思考の運動による方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「人間的思考の運動(正⇔誤)による偏見ある人」と呼ぶ。
788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
最上で無病の、清らかな状態の人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(最上⇔最低)による最上と、このように考えることを最上であると想って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(最上⇔最低)の反応による想いの最上を最上の境地に達し得る智慧であると誤解する。
787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
諸々の事物に関して両極端に分けて近づく人々は、あれこれの誹り、噂さを受ける。人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは、両極端に分けないので、執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を掃い去っているのである。
786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた分ける思考が存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を掃(はら)い除いた人は、両極端を求めることもなく、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうしてまたこの世界に生れようという想いすなわち輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはや中道を極めて求め近づくものがないのである。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。
諸々の事物に関する固執は、これこれこのような人間的思考の運動のものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの人間的思考の運動(快⇔不快)のうちにあって、両極端の反応をして、不快と感じたものを斥(しりぞ)け、また快と感じたものを執(と)る。このような運動をしているものだと知れ。
784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
自らの人間的思考(快⇔不快)の運動による反応の仕方にもとづいた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよるすなわち人間的思考の運動(平安⇔不安)による平安に執着しているのである。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。
修行僧が人間的思考の運動を止めて平安となり、心が安静(中道)に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇り心が人間的思考の運動をすることがないならば、世の中のどこにいても両極端の煩悩がもえ盛ることがないのであるから、かれは仏性に近づいた人である、と心理に達した人々は語る。