スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ サーリープッタ966の解説

966 病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)をも堪(た)え忍ぶべきである。かの〈家なき人〉は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固(けんご)に努力をなすべきである。

 

 

 

病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)の状態にあっても、完全なる中道を保ち両極端に偏ってはならない。かの〈家なき人〉は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固(けんご)に中道を保つ努力をなすべきである。そして聖者は、諸々の状態にあっても、環境に左右されることなく、自らの人間的思考の運動すなわち快⇔不快の運動を制して遂には彼の岸へ到達するのである。

スッタニパータ サーリープッタ965の解説

965 異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)をも恐れてはならない。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。ーまた善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

 

 

異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)が目の前に現れても、快⇔不快の運動を制して中道を保て。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。ーまた中道を追求して、他の諸々の両極端の反応の仕方にうち勝て。修行者は、常にどのような環境であろうとも、自らの反応を制して、遂には安穏を観るのである。

 

スッタニパータ サーリープッタ964の解説

955 サーリープッタさんが言った、ー
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。ーこのようにことば美(うる)わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうたことを。

 

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独(ひと)りで(法)楽をうけられた。

 

 

 

957 こだわりなく、偽(いつわり)りなく、このように範たる人として来たりたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

 

 

 

958 修行者は世を厭(いと)うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

 

 

 

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。ー修行者は音のしないところに座臥(ざが)していても、それらを恐れて震(ふる)えてはならないのだが。

 

 

 

960 未到(みとう)の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。ー修行者は辺鄙(へんぴ)なところに座臥(ざが)していても、それらの危難にうち克(か)たなければならないのだが。

 

 

 

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発するべきか?ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

 

 

 

962 心を安定させ気を落ちつけてている賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?ー譬(たと)えば加治工(かじこう)が垢(あか)を吹き去るように。」

 

 

 

963 師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、人なきところに趺坐し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

 

 

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。

 

 

 

しっかりと心の動きに日々気をつけ、すなわち快⇔不快の運動を制する修行を守る聡明な修行者は、次のような時においても、快⇔不快の反応をしてはならない。襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)が目の前に現れても、爬虫類(はちゅうるい)が目の前に現れても、四足獣が目の前に現れても、恐ろしい人間(盗賊など)などが目の前に現れても、心が両極端に反応することなく中道を保つべきである。

スッタニパータ 武器を執ること954の解説

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

 

聖者は、人間的思考の運動を制止して分けることがないので、自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、手にしたものにも固執せず、人間的思考の運動により、好き⇔嫌いに分けることがないので、好きと感じたものをとることもなく、嫌いと感じたものを捨てることもない。と師は説かれた。

スッタニパータ 武器を執ること953の解説

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

人間的思考の運動により煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人は、人間的思考の運動が止められない人々が欲する両極端のものを手に入れようとする策して労するような作為は存在しない。かれは、両極端のものを手に入れるためのアクセスした営みから離れ、遂には安穏を観たのである。

 

 

スッタニパータ 武器を執ること952の解説

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

 

人間的思考の運動による欲は、もの凄い激流であり、もの凄い勢いで人を吸い込む。その欲により、人は、無慈悲となり、激しい欲に襲われるのである。そして悩みさまよう。聖者は、それを知って、人間的思考の運動に常に気をつけ、分けることなく、全ての万物を平等に知る智慧が存在する。彼こそは、人間的思考の運動を制して平等性智となった人なのである。

スッタニパータ 武器を執ること951の解説

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

「これはわがものである」⇔「これは他人のものである」 このような人間的思考の運動が存在しない人。かれにはこのような「わがもの」と言う観念が存在しないから、「われになし」と言って悲しむことがない。この常時変化する世界において、「わがもの」と執着をする心すなわち苦である。かの聖者は、この理を知って、分けることなく、この無常の荒波を渡り終えて遂には彼の岸へ到達したのである。

 

スッタニパータ 武器を執ること950の解説

950 名称と形態につて、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

 

この世に存在するものには、全て名称と形態があるが、人間はそれを即時に2つに分け分別するのである。その思考を止め「わがもの」という想いが全く存在せず、この人間的思考の運動を止めることにより両極端(快⇔不快)へ対しての想いを捨て欲するものがないからといって悲しむことのない人、かれは実に世の中にあっても、生と死を乗り越え遂にはおいることがない存在へなったのである。

スッタニパータ 武器を執ること949の解説

949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

 

 

 

過去に分別して分けた煩悩を枯渇せしめよ。未来にも分けることなく人間的思考の運動を制止せよ、現在においても、常に人間的思考の運動によく気をつけて汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。すなわち、かれは分けることがないので、欲することなく、動揺もしない。かれは、全ての理を知り、遂には、安穏を観たのである。

スッタニパータ 武器を執ること948の解説

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

 

 

世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人。すなわち中々止めることが困難な人間的思考の運動を完全に制止した人は、迫り来る人間的思考の運動に流されず、執着しないので自らの想いに束縛されることなく、理を知って悲しむことなく、全てを知り、思いこがれることもない。かれはすでに彼の岸へ到達し、心は安らぎ、不動の心を得たのである。