スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ  最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人間的思考の運動によって、勝れている⇔つまらないものという運動をしている。そうして人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。それぞれの見方によっては勝れあるいは劣るのである。そして論争を呼ぶ。聖者は見方が人間的思考の二元ではない。それぞれの見方を尊重し、たたえ合う。実に世の中には様々な見方がありそれぞれが貴重なのである。それを知って自らの一方的な見解を打ち破り、人間的思考の運動を制したとき、かれの目の前には新たなる境地が見えてくるのである。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動による範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、人間的思考の運動を制しているので分別して執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲に執着し貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると固く執着することもない。かれは、全ての人間的思考の運動を制して安らぎに帰したのである。

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句794の解説

794 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

 

 

かれらは、何かを手に入れるために、はからいをなすことなく、何物かを分別して特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と心が運動して語ることもない。過去に分別し結ばれた執着のきずなを捨て去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。かれの人間的思考の運動は止まって寂静である。と師は答えられた。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対しての人間的思考の運動を制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。かれは、常に気をつけ自らの運動を制して遂には智慧を獲得したのである。

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人すなわち人間的思考の運動によるこだわりがある人は、人間的思考の運動による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動を止める修行によって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

前の師などを捨てて後の師などにたよと言うことは、自ら人間的思考の運動を止める気がなく師などに何とかしてもらおうと頼り近づく。自らの運動は、他のものが止められるすべはなく、自らが気をつけるしかないのである。このように煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝を頼りにとらえては、また放つようなものである。このように同様の事を繰り返し煩悩の激流に溺れていくのである。修行者は、気づかねばならない。この修行に信仰心は必要なく、頼って運動が止まるものではない。彼の岸へ渡る方法をよりどころとし、自らが自らの運動を制して渡り終えるのである。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動を止めることのほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福(幸、不幸)に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因をつくることがない。人間的思考の運動をすると快、不快にものごとを分ける。分けるとそれは振り子のような運動をするので、快を追い求め掴んだとしても、全く逆の方へと運動し、同等の不快がかれに襲いかかるのである。これが禍福の因である。そしてこの運動を止めていない状態が、禍福に汚されている状態である。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を止めて遂には禍福(煩悩の荒波)を乗り越え彼の岸へ到達するのである。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

もしも人が人間的思考の運動による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が分別した智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩の荒波に飲み込まれている人がその荒波を止めること以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「人間的思考の運動をしている偏見ある人」と呼ぶ。人は常に人間的思考の運動により、快、不快に分別し自らが快と感じたものを正しいとみているのである。また、知識によって自分の運動が止まるわけではない。常に気をつけ自らの運動を制している修行者の運動が制止し煩悩の荒波を渡り終え遂には彼の岸へと到達するのである。

 

 

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句788の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、見解を最上の境地に達し得る智慧であると理解する。人が、人間的思考の運動によって快、不快に分け快と言う偏った見方によって清浄になるのであれば、人間的思考の運動を制していない人間が最上の境地に達することになる。智慧とは、人間的思考の運動を止めたところから繋がるものであって、この運動の範疇にはない。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を制して常に気をつけて世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

 

人間的思考の運動によって自らの判断基準で快⇔不快に分け諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。おおよそ半分の人は、かれらと違う見方だからである。偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは、分ける事もなく、執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれは、無常で人間的思考の運動による激流渦巻くこの世にありながら自らの運動を制し一切の偏見を掃い去っているのである。