820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
人間的思考(快⇔不快)の運動を止める修行を守っていた時には一般に賢者と認められていた修行者でも、もしも、人間的思考の運動を制せずに淫欲の交わりに耽ったならば愚者のように悩む。なぜならば、それは運動をするので、全く逆の現象も現れるようになるのである。このように運動を繰り返して、荒波を作って行き、自らが溺れるのである。修行者は、快を得れば、必ず同等の不快が襲いかかることを知って、快を貪り求めてはならない。その運動を止めたところに、満たされる境地がある事を知って、常に寂静にして遍歴せよ。
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