人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないとどのようになるのでしょうか?また人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた聖者(智慧ある人)はどのような感じ方をされるのでしょうか?
人間的思考の運動(快⇔不快)は、運動ですから、止められないと、快と不快の運動を繰り返します。ですから、快を掴んでも時間と共に不快へと変化していくわけです。その不快への変化が起こると人は苦しみます。お釈迦様はこの、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすところの執着が世の人々の苦しみの原因だとおっしゃっられているのです。つまり、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないと苦しみへ近づいて行きます。例えば、綺麗な花が咲いているとします。人は、この綺麗な花が咲いている最も綺麗な状態に人間的思考の運動(快⇔不快)によって執着をします。しかし、花は時間と共に枯れて行きます。人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人々は、枯れると苦しみます。聖者は、この綺麗に咲いている花の「今」の状態は「今」しかない事を知って尊さを感じるのです。この変化によって苦を生じる人々と花の変化を感じて尊さに気づく聖者この気づきの積み重ねが智慧となるのです。
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