878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
人には、それぞれの見方がある。ところがそれぞれが自らの見方に執着をして、他を排除しようとする行為それは人間的思考である。自らと同じ見方をするもの快と感じ、違う見方をする人間を不快と思い排除しようとするのである。自ら真理への熟達者と称し慢心に陥り、このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人であると論争に及ぶのである。修行者も、ある真理を掴んだときに「これだ」と想う。その時点ですでに人間的思考の運動が立ち上がっているのである。そしてその掴んだもの以外を排除しようとする心、それもまた人間的思考なのである。他のものを「たいしたことない」おと思い、自らは「すごい」と思う。これこそは人間的思考の運動である。運動をするので、あるときは、他が「すごい」ことになり、自らが「たいしたこと」なくなるのである。修行者は、この人間的思考の運動を制して中道を目指すものであって、人間的思考の運動による一時的なことを喜ぶものではない。その喜びをも捨る。それが喜捨なのである。
コメントを残す